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2008年11月16日 (日)

『GUNSLINGER GIRL(ガンスリンガーガール)』~Little Baby Nothing~

 「絵チャットの外部プレビューを読み込もうとするから、負荷でトップページやブログの表示が遅くなった」と言うお声がいくつかあったので、外部プレビューを取っ払ってみました、PAN太です。
 すいませんでしたー。今後はすんなり表示できるかと思います。

 今回の更新は、中二病全開!

 間違って息子とかに見られた日には、「もう、今後どのツラ下げて父親ヅラ出来るモノか!」ってくらい、アレなナニですわ。

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 「私の心はとっくに死んでいて 自我なんか残っていない
 だから 誰もが私を愛してくれるの
 みんなが欲しがるのは 私という女の切れ端
 絶望的に受身で 取り替えのきく予備部品
 あなたに従属したい 
 一人では怖くて この道を歩いていけないわ
 お願い あなたの腕で抱きしめて
 私はあなたの所有物になりたいの」
             (MANIC STREET PREACHERS/『Little Baby Nothing』)

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 先般、「好きなマンガのヒロインが非処女だった」と嘆いているファンについての話題を知った。

 私は、こういう、マンガに本気で入れ込む馬鹿(失礼)が大好きである。
 しかし、「本気で語れば、どんな言い分も正しい」とまでは思わない。
 愛する人への嫉妬や独占欲は私にもあるし、痛いほど共感出来る。
 出来るが、しかし、「処女でなければ愛せない」というのは、大将、そりゃあねえだろう。ソレは明らかに身勝手で、あまりに幼稚な価値判断ではないか。
 そういう幼稚な衝迫を乗り越えて、「『彼女』と、コレからどのような関係を取り結んでいくのか」と言うコトを悩むコトが出来ない奴も世の中にはいるかもしれない。
 つか、マンガのヒロインとの関係について悩む奴の方が問題かもしれないが…。

 少年マンガの「箱庭的世界観」に甘やかされてきたメンタリティの持ち主は、自分の価値判断と衝突するような物語には、ストレスを感じるモノだ。カタルシスを求めてマンガを読んでいるのに、何故わざわざストレスをこうむらなければならないのか、と思っている。
 なんでそんなコトが断言出来るのかと言えば、俺がそう言う種類の人間だからだ。

 そういう手合いにとっては、「優れたマンガ」とは、

 ①読者の価値判断と衝突しない、一貫した「箱庭的世界観」
 ②作品中で、登場人物に容易に下される価値判断
 ③読者に確実に効率的にカタルシスを提供するコトを最優先目的としている

 このような態度が貫徹した作品を言うのだ。

 ②に関してさらに説明すると、ドラマ性とは、「価値判断の衝突」である。
 例えば、少年マンガにありがちな展開だが、「バトルの勝敗」によってこの「衝突」が容易に解消される場合は、「ドラマ性が希薄」となるコトが多い。バトル、バトルの連続では大味になり過ぎるから、塩味程度のドラマ性(らしきモノ)をまぶしてみせるのだ。(塩味…と言って、典型的なのは、「殴った拳を通じて、初めて敵にも熱い想いが伝わる」とか、「昨日の敵が今日は仲間になり、次なる敵と共に戦う」とか、ああいうのですわ。ハイ。)

 逆に、作品中でこの「衝突」が解消を見ない場合は、読者はストレスを抱えるコトになる。
 読者の感情移入の対象である「主人公」や「ヒロイン」が、「衝突」の結論として、「積極的価値(=栄光)が与えられていない」。言い換えれば、「作品世界から肯定されていない(=祝福されていない)」からである。

 さらに言えば、万が一、作品中で「価値判断の衝突」に対して「判定」が下されない、と言う事態があれば、その場合作品は読者にその価値判断を委ねている、と言うコトを意味しているのではないか。
 「箱庭の中(=マンガの世界)」で決着を見なかった「衝突」に、読者は「現実」に「積極的価値(=栄光=祝福)」を与えるコトを期待されているのだ。

 誰がそんなコトを期待してマンガなんか読むかよ、という反応は当然あると思う。
 私達の多くは、底意地の悪い言い方をすれば「読み捨ての娯楽」、上等な意味でもせいぜいが「現実逃避の手段」としてマンガを愛している。そういう態度でマンガに接するコトはもともと間違ってなんかいないし、「マンガ本来の使命」とはそういうモノだったはずだ。

 マンガとは、「現実の読者の人生とは何の関係も無いただの商品」、「趣味の時間を豊かにするための消費材」であり、その目指すべきは、読者にとってひたすら気持ちのイイ「カタルシス」を提供するコトなのだ。
 だからマンガは、その歴史の中でさまざまな価値観をふるいにかけてきて、読者の価値観と衝突しない「箱庭的世界観」を獲得した。

 この「箱庭的世界観」に慣れ親しんできた読者の内部にも、「箱庭的価値観」が再生産されている。
 「処女でないヒロインは愛せない」という馬鹿げたメンタリティも、硬直的な「少年マンガはかくあるべき論」も、自分たちが語っているのは所詮「箱庭」の中の出来事である、と言う「割り切り」を告白してくれているのだ。
 そして、読者の側に「箱庭的世界観」に対する期待がある限り、「俗情に寄り添う」かのように、少年マンガは「箱庭的世界観」を生産し続ける。

 「非処女のヒロインを、俺はこれからどのように愛せるのか?」などと言うコトを、読者様が悩む必要などないではないか。
 マンガは、読者の「箱庭的世界観」と衝突しない、とっつきが良いヒロインを、せっせと生産すればソレでイイのだ。

 マンガと現実を断絶させている「割り切り」を踏み越えて、読者の側に渡って来ようとする作品がもし現れたなら、「そんなのはマンガの役割では無い」「そんなコトを俺はマンガに期待していない」とバッサリ斬り捨てるのが、「箱庭的世界観」の正しい判断なのだ。

 読者は、「箱庭的世界観」で解消出来ない「価値判断」を求めてくるマンガなど、面倒くさいだけなのだから。

 「マンガが私達の現実の生活の価値判断に影響を与える存在にはなりえない」あるいは「そんな必要は無い」、と言う「割り切り」をもってマンガを読んでいる限り、そこここで語られているマンガ感想の類も、所詮は「箱庭の中の景色」について云々しているのに過ぎない。

 マンガ語りなんて、「私達が生活の中で日々決断を下し続けている価値判断」とは、何の関係も無い出来事だ。
 マンガから受け取った「好き」も「嫌い」も「感動」も「失望」も、語り手の現実の生活にまで持ち込まれるコトは無いし、そんな必要も無い(第一、本気でそんなコトをする奴がいたら、「マンガと現実との間の割り切りが出来ない馬鹿」だと笑われるのがオチだろう)。
 そして、そういう態度から語られるマンガ語りなど、盆栽の枝ぶりを鑑賞して「この曲線に萌えますね」とか「この枝をこうしたらもっと良くなるのに」とか言ってるのと大差無い。
 盆栽の鑑賞に意味や価値が無い、と言っている訳ではない。盆栽好き同士の間だから通じる話もあるし、同好の人間同士で共通の話題について語るのは素直に楽しい。

 しかし、そういう「割り切り」を踏み越えて、「読み捨ての娯楽」「現実逃避の手段」以上の「なにか」になりたい、と求めて生まれてくる作品の前では、「箱庭的世界観」に依拠した「盆栽の枝ぶり」談義など、最初からなにも語っていないのも同然である。
 少なくとも、私はそう思っている。

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 「神様の手は 私には届かなかった
 色褪せた映画や 大好きな本や 白黒テレビだけが友達だったの
 世界のすべては 私にとっては存在しないも同然
 いいのよ 好きなだけ私を使い倒したらいいわ
 あなたにとって私なんか ロリポップキャンディみたいなものなんでしょう
 私をダメにしてしまうつもりなのね 
 どうせ私の人生なんて 
 いつか 老人になったあなたが懐かしむ想い出に過ぎないのよ」

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 なんと言いますか、今、かなり、この作品に心を奪われてしまっています。

 『GUNSLINGER GIRL(ガンスリンガーガール)』。

 一気に、既刊10巻全部揃えてしまった。
 また、に怒られたよ。コレ以上マンガ本増やしてどうするのかって。

 すでに有名な作品であり、コミックスは累計300万部近く売れているらしい。
 アニメ化も2期に渡って実現されているとのコト。
 つまり、商業的に成功しているマンガなのだ。
 くやしいが、チャンピオンのどの連載作品より、多くの読者に愛されている。

 それらの事実がにわかには信じられなかった。
 『GUNSLINGER GIRL』は、それほどヘヴィーな内容を持った作品だった。

 主人公の少女たちは、国家の秘密組織の下で「戦闘機械」としての訓練を受ける「サイボーグ」。
 彼女たちの存在意義は、「国家要請に従って、ミッション(主に殺人)を遂行する事」。
 少女たちがそれぞれに背負う、恵まれない(と言うより、凄惨な)生い立ち。
 与えられたのは、つくりものの体。
 いつわりの記憶の上に形成された、過去を持たない人格。
 「つくりものの体」と「いつわりの記憶」を維持するための薬物投与は、彼女たちの「もともと極端に短い寿命」をさらに削っていく。
 少女から担当官の男性に向けられるのは、洗脳処理から派生した「擬似恋愛感情」。
 再洗脳のたびに、上書きされて失われていく、「ささやかな想い出」。
 黒い世界の片隅で、束の間ひっそりと咲いて、そして枯れていく「小さな幸せ」。
 少女たちの「生」は、取り替えのきく予備部品のように扱われていく。

 このマンガの中では、「真実」と確信出来るモノが、一見するとどこにも見当たらないように見える。
 少女たちにも、彼女たちを取り巻く大人たちにも、「積極的価値」を見出しにくい、殺伐とした作品世界。

 美少女が銃を手に派手なアクションを繰り広げるマンガ、と言う部分に惹かれてこのマンガを読み始めた人(実は私もそうです)は、ストーリーが進むにつれて確実に「終末」に向かって枯れていく美少女たちの姿を、どんな気持ちで見守っているのだろう。
 しかも、途中から登場する二期生ペトルーシュカの存在は、一期生の少女たちを(肉体的にも精神的にも)追い越して行き、彼女たちを確実に「過去の存在」へと落とし込んでいく役割を予感させて、やるせない気持ちにさせられる。
 自分の好きなヒロインが、作品世界の中で滅び、乗り越えられ、やがて忘れ去られていくのを見守らなければならない、などと言うコトは、「箱庭的世界観」ではあってはならないコトのはずなのだが。

 だけど、愛されているんだよ。このマンガは。
 『ガンスリ』のファンはアレか、マゾ体質の人が多いんか?俺を含めて。

 一方で、少女たちと男性担当官との間に存在する「絆」がストーリーの主旋律である以上、どんなに歪んでいるように見えても、『GUNSLINGER GIRL』は間違いなく「ラブストーリー」である。

 少年マンガが一般にラブストーリーを苦手とするのは、恋愛には本質的に「勝敗」も「ルール」も存在しないからだ(個人的には、恋愛には「善悪」すら存在しない、と言い切りたい)。
 好きな相手と結ばれるコトがあっても、ソレをもって恋愛は終るわけではないし、逆に成就しない恋愛に価値が無いわけでもない。

 恋愛と言う局面でキャラクターが要求されるのは、「力で敵を打倒するコト」でも無く、「正解を選択して攻略するコト」でも無い。

 自分が求める相手と、どのような関係を結んでいくのか。
 自分とは違う人間と、ともに生きていくと言うコトはどういうコトなのか。
 自分や相手の「心の迷宮」を経巡り、正解が存在するのかも分からない世界を味わうのが、恋愛の本領なのではないか、と私は思う。

 「戦い」に勝利すれば、おのずと状況は打開される(=価値観の衝突が解消される)と言うのは、少年マンガ特有の「箱庭的世界観」の下でしか通用しない、幼稚なメンタリティなのである。
 恋愛における「価値観の衝突」は「戦い」では解消出来ないから、ラブストーリーはドラマ性が強くなり、作品中で「価値観の衝突」が解消されない場合、その恋愛は悲劇性を帯びたりもするのだ。

 読者にとって、『GUNSLINGER GIRL』の少女たちは間違いなく「悲劇のヒロイン」である。
 自分たちが感情移入するヒロインたちの過去は、とにかく重たいモノばかりなのだが、その上、彼女たちの未来にも、明るい徴がまるで見えない。
 ヒロインへの感情移入が、報われそうな予感が全然しないのだ。

 『GUNSLINGER GIRL』と言うマンガは、カタルシスを期待する読者を打ちのめすために生まれてきたかのようだ。

 この作品は、読み手によっては、「白黒・善悪・正邪を明確にしない、非倫理的な作品」と映るかもしれない。
 登場人物の…例えば、少女たちを取り巻く大人たちの「悩ましい偽善」や「錯誤」が、「真実」に昇華されるコトが無い、救いの無い作品、と読めるかもしれない。
 『GUNSLINGER GIRL』の少女たちの「生」など、水をつかむようにやるせない手応えしか感じさせないモノかもしれない。
 今、夜空に輝く星も、いつか必ず萎んで死んでゆく運命にあるのと同じように。

 『GUNSLINGER GIRL』は、読み手に「価値判断」を委ねきっている作品のように、私には思えてならない。

 しかし、『GUNSLINGER GIRL』は、この「救いの無い世界」に「一撃」を加える。
 きわめて控えめなかたちで、ソレもほんの時たまに、だが。

 例えば、第9巻のアンジェリカ編。
 少女アンジェリカの記憶の中から消えたはずの『パスタの国の王子様』が蘇るシーンである。

 彼女を取り巻く大人たちは、自分たちを呪いのように苦しめる過去から逃れられないまま、希望が見えない現在を生きている。その大人たちが、かつてアンジェリカを慰めるために創作したおとぎ話が、今度はアンジェリカから大人たちに向けて語られる。

 このおとぎ話が、大人たちの「誠実」から生まれたものだとは認めない読者もいるかもしれない。
 偽善かもしれない。
 どんなにましな意味でも、せいぜいが自己満足に過ぎないかもしれない。

 しかし、アンジェリカが『パスタの国の王子様』を語ってくれた時、私たちは、思わず膝を折るのだ。

 この世界には、「愛」が無い。「誠実」も無い。無くて当然。もともとそれが『GUNSLINGER GIRL』の世界なのだ。私達の世界によく似た、そんな世界なのだ……
 そんな軽薄な認識を、このシーンはぶち砕く。

 「愛」が無い世界でアンジェリカを苦しめてきたコトを、「誠実」が無い世界でアンジェリカを生かしてきたコトを、大人たちは悔い、そして涙を流す。

 「取り替えのきく予備部品」のように扱われてきた彼女の「生」は、この時確かに、この殺伐とした作品世界に一撃を加え、ほんの少しだが、揺るがせてみせている。 

 「箱庭的世界観」が目指すカタルシスとは比べようもないだろうが、この『GUNSLINGER GIRL』の過酷な世界が、ほんの一瞬、アンジェリカを祝福し、栄光を与えてくれた瞬間だと私は思う。

 栄光と呼ぶにはちっぽけで、散発的なエピソードかもしれない。

 しかし、この一瞬だけは、アンジェリカの苦痛が確かに「世界の中心」だった。

 このエピソードについて、「感動した。泣いた。」と語るのは簡単だろう。
 そして、私たちは簡単に忘れるのだ。
 感動も、涙も、現実の自分の時間とは何の関係も無い、「箱庭」の中の出来事として。

 今、みんながドン引きしているのを予想しながら書いている。
 馬鹿だと思われてもいい。
 中二病だと笑われてもいい。

 私は、これからの自分の現実の生活が、アンジェリカの苦痛とは無縁に続いていくのだ、と言う事実に、怒りを覚えている。

 『GUNSLINGER GIRL』から受け取ったモノを、どうして、マンガを読む以外の時間の…現実の自分の時間の中に、連れて行くコトが出来ないのか、と、自分に怒っているのだ。

 『GUNSLINGER GIRL』の作品世界が、アンジェリカに、トリエラに、ヘンリエッタに、少女たちに積極的な価値を、栄光を、祝福を与えてくれないのなら、読者がソレを彼女たちに与えるしかないじゃないか。

 いや、違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。
 『GUNSLINGER GIRL』は、「箱庭」と「現実」の間にある断絶を踏み越えて、読者に念願しているのだ。

 「彼女たちを祝福してあげてください。」と。

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 君は純粋だよ 
 君は 雪のように純粋で美しい
 僕たちは、と言えば 退場させられる運命にある 自堕落な木偶人形に過ぎないのさ 
 僕たちに ロックン・ロールの啓示がやってくる
 文化
 疎外
 退屈
 そして絶望を、と

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 「世界の中心」のようにさえ感じられたアンジェリカの苦痛すら、残された者たちによって「乗り越えられる」、と言うよりもむしろ、混沌の中で溶かし込まれていくようなかたちで忘れ去られてしまうような予感がする。

 作品世界の中でも、たちまちのうちに、彼女たちの「生」は、再び「世界の片隅」の取るに足りない「予備部品」のひとつとして、取り扱われていくだろう。

 第10巻で、少女トリエラは誓う。
 確かなモノなど…自分の中の感情すら、どこまでが自分自身のモノなのか、確信が持てないような「生」であっても、

 「必死に生きて そして死のう」

 と。

 彼女たちのドラマに比べれば、自堕落で建設性の無い私の「生」など、みじめな嘘で固められた出来の悪い…誰も読まない小説ほどにも意味が無いだろう。

 私はトリエラのように、必死で生きたコトなど無かった。
 アンジェリカのように、誰かを赦したコトも無かった。

 だけど、馬鹿を承知で、私は思っている。
 彼女たちを、「箱庭」の外に連れ出して、マンガ以外の現実の時間の中で祝福してあげたい、と。

 どうしたらそんなコトが出来るかなんて、私にもわからないですよ?

 だけど、とりあえず、彼女たちの「生」に思いをいたすたび、私の胸は痛いのだ。

 彼女たちの存在が、私の心の中に、まるで、新しい「痛点」となって宿ってしまったかのように。

 ムリヤリだが、それが、彼女たちの「栄光」と言えば、言えるのかもしれない。

 今は、そんなコトくらいしか、私には思いつかないんです。

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コメント

自分以外の人を「最初からなにも語っていないのも同然である。」なんて思い上がった言葉がどうして出てくるのかよくわからん
そんなこと言わないと漫画の感想も書けないの?他の人関係ないじゃん。
漫画のことを「ただの商品」「消費財」とかけなしておいて、なんで自分が好きな漫画だけは暑苦しいくらいに熱く語れるの?もう支離滅裂。panさんが好きな漫画だけは特別なの?他の人の感想はそんなに駄目なの?
他の漫画感想サイトは、きちんと論理的に批評して、好きな漫画に生産的に意見を交換しているんだよ。独りよがりな感情論垂れ流してるだけのpanさんとは違うんです

妄想に走らないで、きちんと言葉で語ってくださいよ!

投稿: | 2008年12月 4日 (木) 21時25分

 返信が遅くなってすいません。

 私がマンガ一般を「ただの商品」「消費材」とは考えてない、むしろその逆だと言うコトは、匿名さん以外の方には通じています。
 何の説明も無くそう言われても納得されないでしょう。
 私、好きなんですよ…。「皮肉」「反語」などの修辞でもって本意を偽装し、ソレによって逆に強調する、と言う、回りくどい書き方。

 >妄想に走らないで、
 この文章の主題のひとつは、思いっきり平たく言えば、「マンガはこんなに素晴らしいのに、ソレを読んでる私の現実は、どうしてこんなんなのか?」と言うコトです。
 コレを「妄想」と呼ぶのは、マンガ読みとしては健全な判断だと思います。
 そして、コレを「妄想」と呼ぶような「健全な判断」は、どのような価値観から生まれてくるのか?ソレも主題のひとつです。

 >きちんと言葉で語ってくださいよ!
 匿名さんには、私の記事中の「マンガ語りなんて、『私達が生活の中で日々決断を下し続けている価値判断』とは、何の関係も無い出来事だ。」と言う文章について、是非意見をいただきたい、と思います。
 本当に関係が無いのか。それとも本当は関係あるのか。
 私のこの「妄想」(どうせコレも妄想と呼ぶのでしょう?)に応答してくれないようならば、「論理的な批評」も「生産的な意見交換」も、私にとっては「最初からなにも語っていないのも同然」だ、と言ってるのです。
 第一、「論理的な批評」「生産的な意見交換」の方だって、この手の「妄想」なんか最初から相手にしてないでしょうが…。

投稿: PAN太 | 2008年12月 7日 (日) 08時05分

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