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2009年2月12日 (木)

低い家の女の子

 ああ。
 また血圧が高い目だ。

 多分、今回もグダグダになる。
 いつもの調子です。
 たいしたモノはありません。 
 思いつくまま、書き散らかすコトになりそうです。
 気にしないコトです。
 俺も気にしない。 
 見直さない。整えない。気にしない。
 あとは知らない。

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 男らしいぜ つらい過去を自慢できる大人になれて
 お前は弱音を吐いてはいけない立場に向ってる
 通りすぎた時代にいかにもお前がいたかのように
 次の世代のならわしにも食い下がれるぜ
 でも この不安はいったいどこから来るんだろ

           (泉谷しげる/『流血のならわし』) 

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 昨日、長男坊の私立高校の入学試験があった。
 いじましいハナシで申し訳ないが、受験料は1万5千円した。安くねえ。
 もしも入学したとして、入学金やら学費やら制服代やら教材費やら、当然だが諸式、公立高校とは別次元の価格設定。
 公立高校にいけるか、私立に行く破目になるか、たったソレだけの違いで、向こう3年間の我が家の家計は大きく違ってくるのだ。誇張抜き、言葉どおりの意味で、天国と地獄。

 私は、長男坊に繰り返し言っている。

 「親孝行せいとは言わん。しかし、もしも私立高校にしか引っかからなかった場合、お前が高校生の間の3年間、俺はお前に毎日意地悪してやるからな」

 当たり前だろう。
 愛なんてモンは、天然自然に生えてくるわけじゃないんだよ。
 家族間の愛情だって、銭、カネに左右されるのだ。
 …と、自分で書きながら、「ひでえ父親…」とひとりごちる私。

 みんなビンボが悪いんや。

 今日は生臭いハナシになる。

 今月の給料の嵩を見て、嫁が嘆いていた。
 「ちょっと…コレじゃ、今月はギリギリだわぁ…つか、足んないわぁ…フゥ…」

 私の勤め先の給与体系は、固定給プラス歩合給の設定である。
 打ち明け話になるが、固定給は最低賃金カツカツ。コレだけ見れば、高校卒業したてのオニイチャンとどっこいどっこいの数字である。
 その上に、毎月の売上に応じた歩合給が別途加算されるのだ。
 だから、給料の嵩は、毎月違う。
 景気がイイ時は当然売上も上がるので、まあ、ちょっとだけオイシイ思いをさせていただいたコトもありました。
 ソレも今では遠い、遠い、昔のハナシである。
 不況下の昨今、求人広告に予算を割ける事業所なんざそうそうあるわけも無く、ぶっちゃけたハナシ、全社の売上は対前年比で見ても、深刻を通り越して笑ってしまいそうなレベルにまで落ちている。
 コレは求人広告で食っている業者なら、多少の差は有っても皆共通している、危機的状況である。
 売上に対する歩合で食っている私ら営業職の場合、売上が激減している、と言う現実は痛い。給料が単純に半減する、と言う訳では無いが、「昨年同時期と比較すると3割、4割収入が減った」と言う同僚は少なくない。

 イヤ、もう、まいった。
 嫁は「お願い…早く確定申告の手続きして。少しでも早く、還付金取り返して…」と言い募る。

 今では、私も含めた誰もが、猟犬のように走り回って営業しまくっている毎日である。
 「飯の種(=食)」と、ソレと、「自分の居場所(=職)」を守るために、だ。

 そこここで日々繰り広げられているのは、文字通りの意味での「万人の、万人に対するむきだしの戦い」であり、容赦無しの「食と職の奪い合い」である。

 ココから先、誤魔化しも言い訳も偽善も出る幕が無い時代に、私たちは生きている。

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 貧乏人の中で働いていれば、だれだってときにはカール・マルクスにかぶれずにはいられませんよ──それでなければ、いっそ聖書にかぶれるかだ。
           (カート=ヴォネガット=ジュニア/『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』) 

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 ヴォネガットの青臭くも若々しく、そして侠気に溢れるアフォリズムに、あなたも感動して欲しい。
 私はそう思って、上の一節を引用した。
 中学2年生だろうが42歳の女房子供持ちだろうが、いつまでもこの一節に感応する魂を持っていて欲しいモノだ、と、心からそう思う。
 コレを鼻で哂うような奴とは、私は一生友達になれないだろう。どうせ、向こうの方から願い下げだろうが。

 すんません。
 この段落は、すっげーすっげーダルいハナシになりそうです。

 一方、わが日本には、「若い時にマルクスにかぶれなかった奴は馬鹿。もう若くないのに、まだマルクスにかぶれている奴はもっと馬鹿。」と言う意味のアフォリズムがある。
 「まだかぶれてる奴は」と言う物言いには、「思想やイデオロギーと言うモノは、解釈され、消費され、新しいものに次々と上書き更新されていくモノに過ぎない」と言う、日本独特の知的伝統がうかがえる。あと、何故かむやみと早熟を尊ぶと言う、もうひとつの日本の伝統も。

 マルクスでもフーコーでも浅田彰でもいいのだが、日本においては、新しい論がかつてあったモノを乗り越えていく、と言う形ではなく、知的アクセサリーとして軽薄に乗り換えられてきたのだ。
 アレはもう古い。
 アレは有効ではない。
 理論は実践される前に古くなり、ナニも確かめられないうちに陳腐化される。
 戦前から存在し、ポストモダンの流行以降、特に顕著になった、この手の悪しき「知のゲーム化」を加速してきたのは、ぶざまな意味における「思想」などですらない。

 彼らが持ち合わせているのは、「状況に対する関数」だけである。

 ノーム=チョムスキーは、欧米のポストモダニズムを「社会参加出来ない衒学者たちの功名争い」と喝破したが、なに、そんなのはポストモダン以前からの日本の知的伝統でもあるのですよ。

 だから、知識人の転向はたやすく起こる。
 「昨日勤皇、今日佐幕」の時代から始まって、「大政翼賛から民主主義」に象徴される、日本の軽薄な知的伝統。共産党から保守反動まで、その触れ幅の広さと、転向に対する寛容な精神風土は、一体ドコから来るのだろう。

 転向を正当化するのは、「現実は刻々と移り変わる。起こってしまった現実は既成事実として=つまり所与の動かしがたいモノとして受け容れるのが、大人の叡智と言うモノ」…と言う考え方だ。
 「主義」「思想」は常に「現実」に負けてきた。そして、自分の「主義」「思想」がたやすく「現実」に枉げられていく過程において、桎梏や蹉跌を自覚すらしなかった知識人が如何に多かったコトか。
 あいつらが、「主義」「思想」を、「解釈され、消費されるための知的ゲーム」にせっせと貶めてきたのだ。

 かつての全共闘の闘士が、『いちご白書をもう一度』よろしく、長髪を切って就職活動した挙句に、何年か経ったら管理職に上がったりもする。
 彼らがかつて掲げていた旗、今振っている旗は、乗り換え可能な方便に過ぎないのだろう。

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 子供の手術の為に 体売らなきゃならない
 そしてあの娘は未来を捨てた
 正直に生きていけば 犯罪者にされるだけ
 そしてあの娘は法律に殺された
 美談で飾られるくらいなら
 女を犯した罪で 新聞の片隅に
 恥を晒してた方がまだマシさ

              (PANTA/『R★E★D』)

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 別に珍しいハナシではない。

 収奪に泣いてきた誰かがいた。
 自分たちが傷つけられてきたその分に見合うだけ、この世界にカウンターを喰らわせたい、と思った時、
 傷ついてきた者・貧しい者・この世界で「低い」とされている者の為に戦おう、などと唱えたモノ好きは、マルクスとイエスくらいしか見当たらなかったのだ。 
 だから、20世紀には、ある者はマルクスの旗を掲げて戦った。
 ある者は「解放の神学」の旗を掲げて戦った。
 ただ、そういうコトなのだ。

 この世界を「満喫」している人間にとっては、せいぜい「世界」は解釈され、消費されるべきモノであって、間違っても「革命」されるべきモノなどではない。
 解釈して消費するコトが知的だと勘違いしているボンクラには、一生わからない。

 マルクス、エンゲルスから、ゲバラやカストロやホー=チ=ミンたちがリレーしたのは、「この世界で泣いているすべての人を解放するまで、俺たちは幸福を受け取るコトが出来ない種類の人間なのだ」と言う覚悟である。
 彼らの「この世界のどこかの誰かの苦痛」のために戦うのだ、と言う、途方も無い「やさしさ」を前にしては、私などは呆然とするばかりである。

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 一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於いても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。
 おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。
 重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
 私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
 最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。

           (太宰治/『如是我聞』)             

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 たぶん、こんなのはもう10年ぶりくらいなのではないか。
 本当に久しぶりに、毎週楽しみに観ているテレビドラマがあります。

 『銭ゲバ』。

 初めて原作を読んだのは小学生の頃だったが、女房子供持ちのこの年齢になって、このマンガのドラマ版を観るとは、感慨深いモノがある。
 で、そんな感慨を措いても、このドラマ『銭ゲバ』は面白く、そして素晴らしい。
 何かが憑依したかのような松山ケンイチの演技には、「彼でなくては、この作品は失敗していただろう」と思わせる、真剣勝負のテンションが漂っている。彼以外の俳優に演らせていたら、このドラマは学芸会にしかならなかったのではないか。
 椎名桔平も、観ていて「この糞親父、殺してやりてえ!」と言う気にさせてくれる、実に下衆な演技で、まことによろしい。それに、こんな奴って、いるよな、実際。
 そう。かつていたし、今もいるのだ。こんな奴が。

 そして、そう遠くない昔にはあったのだ。いや、今もあるのだ。こんな貧しさが。
 ひやかしのように語られる「びんぼー」どころではなく、「貧困」と綴られるべき貧しさが。
 私たちのすぐ近く。あるいは、誰かの人生そのものとして。
 いや。強がりはよそう。
 私たち自身の人生そのものとして。

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 時代する都市よ
 その安全のために新しい差別をつくり出す
 百ある甘い話より一つの不安が大きな風穴を開ける
 多くを信じさせるために大いなる不安を言い当てる
 天文学を前にしては人間なぞタメ息しかつけない

 難しい話は過去そのもの
 ハレルヤ……

 めざめを知らず 気づくコトを恥じる
 すごい数の中で生きる 息もできないほどに
 これが現代の大人であり 100年持たない建物にいる
 たったひとつの愛のために新しく差別をつくる

           (泉谷しげる/『ハレルヤ』)

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 もう何十年も昔の話だ。

 札幌のはじっこで、当時私は5歳か6歳だった。
 家と、保育所と、近所の遊び場(公園や空き地や採石場)が世界のすべてだった、頑是無い頃の話だ。

 近所に、変わった家があった。
 何故かその家は、周囲の家々や目の前の道路よりも、2メートルくらいも低い窪地のような場所に建っていた。ぽつん、と、1軒だけ。
 平屋の、文字通りのあばら家で、だから、私が道路に立って見下ろすと、その家の屋根が5歳の私の目線とほぼ同じ高さに見えたりした。

 その家は、低かった。
 子供心にも、その家の「低さ」は、取り繕いようの無い「貧しさ」や「みすぼらしさ」を、そのまま表現しているように思えた。

 その家には、2歳か3歳くらいの女の子が、一人いた。
 その子の身なりと言えば、いつも肌着のシャツを1枚身に着けただけで、他には何一つ着ていなかった。 
 パンツも、靴も、はいているのを見たことが無かった。
 薄汚れたシャツ1枚だけの格好で、前もおしりも晒したままで過ごしていたのだ。
 さらに、衛生状態も栄養事情も悪かったのだろう、その女の子は常に青っ洟を垂らしていた。まぁ、あの頃、洟を垂らしていた子供なんて珍しくも無かったのだが…。
 その子はいつも「低い家」のそばか、自分の家より高い位置にある目の前の道路の上で、裸足で遊んでいた。
 いつも一人で。

 その女の子に、当時の私はどう接していたか、と言うと。

 彼女を見かけるたびに、友達と一緒になって、こう呼んだものだった。

 「こじき!こじき!きたないこじきの子!」

 自分より大きな子供たちが、遠巻きから笑いながら、「きたないこじき」と自分をはやしたてている。
 2歳3歳の子供でも、言葉の意味は判らなくても、悪意や害意は伝わる。
 「こじき」呼ばわりされると、その子は必ず泣き出した。
 それが面白かったのだ。
 友達の中には、時には、その子に小石を投げる奴もいた。
 私も投げたかもしれない。
 いや、きっと、投げたのだろう。
 小石がその子に当たり、その子が泣き出してしまうと、きまって私たちは「きたない、くさい」と笑いながら、その場から逃げた。

 その子が泣き出してしまうか、「低い家」によちよち歩きで逃げ込んでしまうまで、私たちは、彼女をからかいいじめるのをやめなかった。

 「低い家の女の子」は、いつもひとりぼっちだった。
 いつも一人で遊んでいて、誰か他の子供がそばにいる時は、必ずその子に泣かされていた。
 長じてのちに抱いた疑問だが、当時、私たち子供に、「乞食」などと言う言葉を、悪意を込めて教えたのは、いったい誰だったのだろう。教えられた、と言うより、身の回りの大人たちの何気ない会話の端々から、「そういう」悪意や差別意識を、子供は子供なりに受け継いでいくのだろうか。

 「低い家」にも、大人…おそらく、あの女の子の親がいたはずなのだが、昼間はいつも働きに出かけていたのだろうか、私たちは目撃する事は無かった。
 「低い家」の大人は、自分たちの子供が、「こじきの子」などといじめられて泣いているコトを知っていただろうか。
 知っていただろう。
 そして、くやしかっただろう。
 当時は、そんなコトを想像したコトも無かった。
 自分自身が貧乏人の子せがれだったくせに、自分たちよりもさらに一段貧しくみすぼらしい子を、いじめて喜んでいたのだ。

 のち、小学校で自分自身がいじめられたりなどの経験を持ったせいもあるのだろうか。ソレとも、『銭ゲバ』の、幼い風太郎が貧しさゆえにいじめられるシーンなどが作用したのだろうか。ある程度の年齢になると、あの「低い家の女の子」の事を、激しい後悔を持って思い出すようになった。

 今は思う。
 他人を差別する、と言う事は、端的に言えば、相手に対し「お前はいつまでもそのまま、低いまま、卑しいままでいろ」と言う呪詛を投げているに等しいのだ。

 あの「低い家」について、野次馬に言わせれば、「親が甲斐性が無いのがそもそもいけない」「子供に服くらい着せろよ、だからいじめられるんだよ」「そういう差別を経験してみんな強くなるんだよ、それが世の中ってもんなんだよ」などなど、いくらでも言えるだろう。
 しかし、あの女の子が、あんなふうに傷つけられ、泣かされても、「しょうがない」「無理も無い」「それが世の中」などと言う意味のわからない言葉で辻褄を合わせようとする心性と言うのは、なんともみじめな精神のありようではないか。

 あの「低い家の女の子」の人生にとって、私は一体どんな存在だったのだろう。
 それを想像しただけで、私は暗澹たる気持ちになる。

 彼女はその後、どんな人生を送ったのだろう。

 神様、お願いです。
 どうか彼女が、幸せになっていますように。

 わかってる。そんなモノは、私の身勝手なホザキに過ぎない。
 他人の足を笑って踏んでおきながら、幸せもへったくれも無いものだ。

 私に出来るコトは、「卑劣」と言う言葉の意味を噛みしめるコトくらいだ。

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 「世の中、銭ズラ」「銭のためならなんでもするズラ」と言う蒲郡風太郎の口癖は、感動的なまでに正しい。

 私たちは、ひやかしのように「びんぼー」を語る事を覚え、まるで、「購買力イコール人間力」であるかのように、他人や、この世界のあれやこれやを値踏みし、値(あたい)をつけてきた。
 「資本」や「市場」にとって、人間も含めたこの世界のすべては「値段がつけられる・売り買い出来るモノ」である。にも拘らず、「資本」や「市場」は、「この世界には値段がつけられない、売り買い出来ないモノがある」かのように振舞うのだ。

 理由は二つある。

 一つは、「資本」や「市場」の力が及ばない世界が存在する=「資本」や「市場」は、人間や国家の「理性」や「道理」によってコントロールされている・されうる、と言う幻想を維持するため、である。言い換えれば、実際には「資本」や「市場」には本質的に理性も道理も存在しない。もともとが、没義道もイカサマも何でもありの鉄火場なのだ。ソレを、「厳正なルールや理性的なプレイヤーで構成されている観光地のカジノ」のように見せかけてきて、しかし、鉄火場は破綻した。

 二つ目の理由は、「資本」や「市場」は、万能でも無ければ全能でも無い、と思われていなければならないからだ。
 何故なら、私たちは他者や世界に点数をつけたり、値踏みをするコトで、かろうじて自己確認出来る。私たちにはまだ、決断や価値判断を下す主体性が残っている、と思いたいのだ。私たちは、「資本」や「市場」に値踏みされるような存在ではなく、なにがしか侵しがたい尊厳を持った存在なのだ、と信じていたい。

 現実には、「資本」や「市場」から見れば、私たちは交換可能な存在としてのみ価値があり、常にその価値は変動している。

 正社員ですか?派遣ですか?
 今の会社の見通しは?
 年収は?預貯金は?
 年金には加入してますか?生命保険には?
 家族構成は?
 健康状態は?
 タバコはお吸いになりますか?
 この週末は、どのようにして過ごしますか?
 お友達は?
 よろしい。では、この素晴らしい購買力を、あなたに!

 こんな具合に、だ。

 「資本」や「市場」が、私たちを値踏みしたその価値の騰落に一喜一憂するコトが、私たちの人生の大部分なのだ、と言っても差し支えない。

 「人間は銭ズラ。
 銭があればなんでも手に入るズラ。
 ひとの心も銭で動かして見せるズラ。」

 風太郎の信念がかくも極端で非妥協的なのは、世間と言うモノが彼に徹底的に教えてくれたその結果である。
 銭、カネ、現ナマ、キャッシュ、マネーが無ければ、この世界には居場所など無いのだ、と言う現実。
 しかし、風太郎にとっては、銭、カネとは、彼の信念を確認するための道具でしか無いのではないか…。
 そう思わせるのは、彼のこの告白である。

 「わたしは美しいものがすきズラ。
 美しいひとの心がほしいズラ。
 だけど ひとの心が美しいとは思わんズラ。
 この世に真実というものがあれば…命をかけておいもとめるズラ。」

 銭、カネで買えないモノは無い。この世に真実など無い。
 風太郎はその現実を、私たちのように誤魔化したりせずに、全身全霊で徹底的に表現してきただけなのだ。
 そんな風太郎の銭ゲバな価値観をぶち砕くような存在が、この『銭ゲバ』には最後まで登場しない。
 登場人物の多くは、風太郎のカネの前に膝を折り、ある者は膝を折らなかったために風太郎に消されていく。
 しかし、風太郎自身は、悪事を重ねる一方で、カネでは買えない「美しいもの」にいつか出会いたいと強く願い、そしてついに果たせない。

 風太郎一人が銭ゲバなのではない。
 私たちのこの世界そのものが、もともと銭ゲバ的なのだ。

 ラストシーンにおいて、敗北したのは、風太郎なのか?
 それとも、私たちのこの世界の方なのだろうか?

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 高校生の頃、母親と、その友人たちの会話に同席したコトがあった。
 母親たちの話題は、私たちが小さい頃暮らしていたあの町──「低い家」があったあの町に及んだ。

 「そう言えば、〇〇さんっていたわよねえ…」

 私はその時、「低い家」が〇〇さんと言う家族のモノだ、と初めて知った。

 「あの頃、〇〇さんの旦那さん、仕事に失敗して、一番大変な時期だったのよねえ…」
 「そうそう、〇〇さんのとこの、一番下の娘さん、なんて言ったっけ…」

 聞きながら、私は心臓が破裂しそうな思いだった。

 「小さい頃は、いつも鼻水を垂らしていて、お世辞にもかわいいとは言えない子だったんだけどねえ」
 「〇〇さん、あれから少しずつ暮らし向きも良くなって、引っ越して行ったのよね」
 「でね…その娘さん、今、中学3年生なんだけど…小さい頃からは想像も出来ないような別嬪さんになってるのよ、コレが!」
 「ああ、見た見た、凄い美人になってたわねえ。人間わからないモンよねえ」

 …ちょっと待て…

 なんだ、ソレは…

 彼女の人生に、アレから一体ナニが起こっていたと言うのか。

 神様。
 ココは、笑うトコロなのか?

 ソレとも、胸を撫で下ろすべきなのか?

 わかんねえ。わかんねえよ。

 ああ。でも。でも。

 俺はちいさい。
 俺は低い。
 誰よりも。だれよりもひくい。
 そして、誰もが、いつまでも低いままではない。

 その日の夜、俺は、「低い家の女の子」に、「ごめんね」と謝る夢を見たんだ。

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 「こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。この星は夏は暑くて、冬は寒い。この星はまんまるくて、濡れていて、人でいっぱいだ。なあ、赤ちゃん、きみたちがこの星で暮らせるのは、長く見積もっても、せいぜい百年くらいさ。ただ、ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ、いいかい──
 なんてったって、親切でなきゃいけないよ」

           (カート=ヴォネガット=ジュニア/『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』) 

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Photo
 ↑ もう、勢いだけで、ドラマ版『銭ゲバ』の松山ケンイチ描いてみた。
 …男キャラは難しいなあ。

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コメント

ううむ。私も色々ありましたが、こんな風に明確に比較したり表現したり銭ゲバについて語るのはとても難しいです。勉強になりました。ありがとうございました。

投稿: むらペン | 2009年3月15日 (日) 12時10分

 むらペンさん、はじめまして。コメントありがとうございます。

 なんと申しますか、書いてる時は無我夢中、書いたあとで冷汗三斗、と言うお恥ずかしいシロモノでしたが、ほんのちょっぴりでも何事かを受け取っていただけたら、幸せです。こちらこそ、ありがとうございます!

投稿: PAN太 | 2009年3月16日 (月) 22時25分

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