ローリング・サンダー・レビュー

2010年4月 3日 (土)

『奥サマは小学生』騒動に思う

 家族が寝たので、一人、『キャノン先生トばしすぎ』再読中。コレは、息子にも読んで欲しい…親の私が「コレ読め」と奨める訳にはいかないが。出来れば、私が気づかないうちに、こっそり勝手に読んでくれ。そして、このマンガを好きになってくれたら嬉しい。
               (3月20日 Twitterにて)

 ちなみに、息子はこの春、高1と高2。

 次男坊(15歳)の布団の下から、エロマンガを発見したので、アタマを5発殴った上で懇々と説諭したなう。ちなみに、見つけたのは、PONPON先生の『Positive!』。俺のエロマンガコレクションから持ち出したやつである。
               (3月27日 Twitterにて)

 まあ…そんな我が家です。 

 久しぶりのブログ記事は、『ハンザスカイ』でもラブプラスでもありません。

 実は、人面犬さんのブログの記事を読んで、コメント投稿しようと思ったのですが、意想外に長文になってしまったので、思い直して自分ちの記事としてアップするコトにしました。

 エロマンガ大好きな私が毎度お騒がせします。

 人面犬さん、自分で言ってますやん。

 >当時、親に隠れて見ていた「毎度お騒がせします」とこの「ルナ先生」は、性の目覚めそのものでした。(笑)

 大人に「ダメ」って言われたって、抑圧されたって、わしらみんな、セックスに興味津々な子供でした。
 人の子の親になったって、あの頃の自分は裏切れないよ。
 隠したり、無くしたりしたって、私達がどうしようもなく俗で悪な存在である事を、免れられるわけじゃない。
 ただ、人前で言わないだけだ。

 私も、ゾーニングは必要だと思います。が、それは、「送り手と受け手・時には世間やお上を交えて行われる、終わりのない、きわどい綱引き」のようなものだと思っています。
 その時々の社会状況や、市場のトレンド、送り手の思惑などの要素によって、ゾーニングの線引きは常に揺れ動くでしょう。
 しかし、それで充分だと思います。
 ゾーニングしたって、どうせみんな、なんとかしてソレを踏み越えて手に入れようとするんだしさ!俺達がそうだったように!

 チャンピオンREDといちごは、「あと一歩で、ほぼエロマンガ誌」状態だとは認めます。が、しかし、それでも「一応少年誌」でこんなムチャしてる!ってトコロを、個人的にはこよなく愛してるので…このへんがエロマンガ誌にゾーニングされるような世の中は嫌だなあ!

 今回、たまたま槍玉に挙げられてしまった『奥サマは小学生』
 好き嫌いは別にして、私は個人的には「アリ」だと思っています。

 『波打ち際のむろみさん』の「精子かけて」のギャグにしても、性的な匂いこそ感じさせませんが、しかし、コレだって目くじらを立てようと思えば、なんぼでも出来ると思いますし。

 異論・異見がせめぎあい、作品が受容されたり淘汰されたりしていくうちに、ゾーニングの線引きについてコンセンサスらしきものがぼんやりと出来上がっていくのが(そして、なにかあれば、あっという間に形を変えていくのが)、健全な状況なのだろう、と思います。

 子供を盾にするか、隠すのか、という点については、私は「この状況下で、それが規制推進派に反撃する為の戦術として有効なのかどうか」という点にしか関心が無かったです…(;^ω^)
 ご家族を表に出す事は、正直、「規制推進派に、無用のツッコミどころを提供する可能性もあるのでは…」という危惧があります。
 「生活の事情」とか「どれだけ誠実に仕事に取り組んでいるか」とか、それは、敵側の石原や猪瀬だって言おうと思えば言えるコトなんですよね…。

 松山先生の誠実を私は疑いませんが、ただ、今回の反応は、あまり上策ではないなあ、と感じました。
 しかし、猪瀬の恣意的なミスリードの生贄にされた松山先生には、同情こそすれ、非難されるべき筋合いは微塵も無い、と信じています。その点、人面犬さんと意見は同じです。

 >「表現の自由」を守るために、やはり自主規制は必要なのではないだろうか思う。

 現実論としては、全くその通りです。
 しかし、敵は、松山先生の作品や、他にもたくさんあるエロ志向のマンガ一般について、「表現の自由を保障するに値しない」と断じているわけです。

 「ただエロばっか続くような漫画は低レベルだから表現物とは言えない」(猪瀬直樹)

 子供に見せたくないエロマンガよりも、「お前らに表現の自由なんか必要無い」などとぬかす大人の方が、百億倍も有害ですよ…。

 今この状況下に限っては、私達が第一に語るべきなのは、、「表現規制をかけられる前に自主規制」という現実主義な議論ではなく、「表現規制そのものがあってはならないこと」という根本的なコトだと思います。

 まだまだ語り尽くせないですが、今夜はこのへんで。

 ブログでか、Twitterでか、この「表現規制」の件については、またちょこちょこ語る事もあると思います。

 あと、塩山芳明氏の『出版業界最底辺日記』、オススメです。

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2009年8月30日 (日)

大阪からの挨拶

 BGM…   Cocteau Twins / 『Blue Bell Knol』

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 今日、と子供たちが、私を置いて家を出て行った。

 8月30日。
 夏の終わりに、子供たちの今夏最後のイベントとして、新世界のスパワールドに遊びに行ったのです。
 嫁たちと、あと、嫁のお友達の「師匠」さん家族と、あと、他のご家族も参加するらしい。
 スパワールドで遊んだあとは、天王寺の焼肉店で夕食を済ませて帰ってくる、とのコト。

 私は明日も仕事なので、遊びで疲れを残したり、飲み食いが翌日に堪えたり…と言う事態を恐れて、一人で留守番するコトを選択。

 投票所に行って、嫁たちを車で駅まで送ったあとは、駅前の理髪店で散髪。
 その足で、近所のスーパーに買い出しに行きました。
Ate
 ①ヱビスビール(超長期熟成は何処にも売ってなかった…先週は置いてあった店で訊いても、私が買ったあと「誰も買わないから、発注してませんでした」とのコト…くっ)
 ②大阪サイダー
 ③アーリータイムス(大阪サイダーで割ると、バーボン・ハイボール)
 ④サントリーモルツ(もともと買い置きしていた分)
 ⑤キムチ(このまま酒の肴にも、晩飯の材料にも)
 ⑥サンマのお造り
 ⑦柿ピー
 ⑧トマト(酒飲みながら、このまま丸ごと食べる)

 買い物しながら途中で「しまった、どうせ買い出しするんなら、桃谷まで足を伸ばせばよかった…!」と気がついて、後悔。
 桃谷の御幸通商店街(=コリアタウン)なら、チヂミとかチャプチェとかキンパッとかイカフェとか、とにかく私の好物がたくさんある。近所のスーパーで酒の肴を探して迷っているくらいなら、最初から桃谷に行けばよかった。

 なんか、『孤独のグルメ』みたいになってきたな…。

 まあイイ。
 とりあえず、こんだけ買い込んでおけば、このあと今日一日、不自由しないだろう。

 まあ、まずは1杯。
 ぷふー。
 トマトうめー。 

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 夜になると、テレビ各局で衆院選総選挙の開票速報番組が始まる。
 今夜は、長くくそ暑かったこの夏を締めくくる、お祭(=政)なのだ。

 普段、テレビと言えば、『イッテQ!』しか観ない私だが、今日だけはかぶりつきで観ます。ええ。

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 こうの史代先生の、『この世界の片隅に』を再読。
 言っても詮無いコトだが、こんな素晴らしい作品がいつかチャンピオンから生まれてくれたら…と、つい夢見ないではいられません。

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 ちょいと、mixiとか他の方のブログとかをサーフィンしていると、やっぱり、今日付けの日記の話題は総選挙がらみが多いですね。当然ですが。

 ふんふん、と読んでいて思い出したのが、昔読んだ関川夏央の文章。
 今、正確には思い出せないが、
 「現代の若者は、叫んだり歌ったりする事は得意でも、考えたり話したりする事は苦手である」と言う大意の文章だった、と思う。
 確か、70年代の若者についての文脈で登場した、と記憶している。間違ってたらどうしよう。どの本に書いてあったんだろう…。あとで本棚探してみようかな。

 まあ、70年代の若者に限らず、21世紀の我が日本の若者たちも同じだよ…と言うのが、私の感想です。

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 BGM…   The Replacements / 『Pleased to Meet Me』

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 コレ聴いてる間に、「総選挙」に上手いコトこじつけられそうなアルバムを思い出してみよう…。
 さあて。どんなのがあったかねえ。

 ポリティカル・ソング、プロテスト・ソングの類と来たら、まあ、やはりディランになってしまうのか。
 60年代の諸作は勿論なんだが、個人的には、『欲望(Desire)』をお勧めしたい。時々「ローリング・サンダー・レビュー」で検索して飛んできてくれる人もいるし。
 ライナー・ノートで確認したら、もう33年前のアルバムなのか…。アレン=ギンズバーグが解説を書いてる!
 収録曲の『ハリケーン』は、映画化もされましたね。うーむ。何回聴いても古くならない。

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 BGM…   Bob Dylan / 『Desire』

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 うん。
 ココで、バーボンもう1杯。 

 ヤバいな。
 ピッチ落とさないと、夜になる前に眠くなっちゃうかも知れん。

 今から、ちょっとだけ、仮眠とります。
 夜になったら、選挙速報を観ながら、チリポリと続きを書くと思いますよ。
 よしなしごとを、アレコレと。

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 今日一日、個人のブログや日記を読んでまわって思ったのですが、
 自分の支持政党とは違う政党に投票する人間を指して、誹謗中傷する内容のモノが多いなあ、と。

 「○○党に投票するような奴は●●●●●●●●●●●●」※●●部分にはネガで、往々にして差別的な文章が続く

 意見の相違はあって当然だし、批評、批判は大いに結構だろう(優等生的発言)。
 だけど、こりゃあねえだろう。コレはアレか、自分と同じ信念の持ち主以外とは、人間関係を持ちたくないって決意表明か?
 そりゃそうだろ。自分のコトを指して「●●●●●●」とか言われてるのを目撃してしまったら、発言者に対する心証は今までと同じって訳にはいかねえわな。
 ソコまで考えて書いてるかね、このお子ちゃまたちは。考えてなんかねえんだろうな。
 その程度の社会性しか持ち合わせていない奴らがのたまう床屋政談なんか「あー、ハイハイ」と聞き流してりゃいいんでしょうけど。

 胡散臭いのは「政治」じゃなく、こんな瀬戸際まで押し込まれてしまっても、この期に及んでもまだ他人に点数をつけるコトにしか興味が無いお前たちの方なんだよ。
 いい加減学べや。

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 深夜3時時点で、民主党が単独で300議席超、自民党が119議席と言う結果です(NHK開票速報)。
 戦前の大方の予想通りと言うかんじでしょうか。
 この政権交代で、せめて今までより少しでもマシな世の中になってくれ、と、切に思いますよ。ホント。

 「金がねえから結婚できねえとかいう話だったけど、そりゃ金がねえで結婚しない方がいい」
 「それで、稼ぎが全然なくて尊敬の対象になるかというと、よほどのなんか相手でないとなかなか難しいんじゃないかなあという感じがする」
 働いても働いても、結婚も出来そうにない、将来設計すらおぼつかないようなこんな世の中をなんとかして欲しい、と言う若者からのメッセージに対して、麻生氏の答えがコレだった。
 こんな薄汚い台詞を平気で垂れ流す見識の持ち主が、総理大臣をやっていたのだ。
 「マンガ脳」がどうのこうのとよく言われた人だったが、イヤ、そりゃマンガに失礼だろう。こんな人間が出来上がってしまったコトについて、マンガにはなんの責任も無い。
 彼が就任中には「マンガ読んでるとこんなボンクラになってしまうと言うのなら、マンガなんて低俗な文化はいっそ規制強化して将来的にこの世から抹殺してしまえ!」なんて世論が盛り上がったりしたらどうしよう…と、ビクビクしてました。ええ。

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 私から見れば、自民党も民主党も「どっちもどっち」。
 自民党支持者(特にネット上での意見を見ると)の中には誤解している人もいるみたいですが、民主党、アレは左でもなんでもない、立派な保守政党ですから。
 共産党や社民党みたいな革新政党だったら、こんな広汎な支持を得られなかったでしょう。
 今回の総選挙、「自民党か、さもなくば民主党か」と言う二択しか無いような流れになってしまったけど、ホントにそれだけでよかったのかねえ。
 他の可能性は無かったのか、これからも無いのか、ソコが気になって仕方が無い。

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 一党の党首や、首相経験者がバタバタと落選していくさまは、申し訳ないが、見ていて痛快だった。

 今まで揺るぎもしないように見えた壁が、もろくも崩れていくのを見ているようで。
 
 「万物は流転する」と言う言葉を思い出す。
 世界の諸相は常に変化し、一定ではない。永遠なんて、何処にも無いのだ。
 政変を目の当たりにした時は、いつもそんな当たり前のコトを思い出してしまう。

 祭りは終わった。

 民主党大勝利。
 自民党惨敗。
 ココまでは、誰もが予想した通りだ(一部の人の期待通りではなかっただろうが)。

 明日から、この世界がどう転がっていくか、それはまだ誰も知らない。

 お祭りではなく、明日からまた続くうんざりするような日常の中で、私たちは確かめる。
 
 あの時の信念は、今日もまだ生きているのか、それとも、もう古びてしまってはいないか、と。

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2009年8月 1日 (土)

『僕たちの国境』~『Sun City』

 川村カオリが亡くなった。
 まだ38歳。

 今、彼女のアルバム、『Hippies』や『Church』をひっぱり出して聴いている。
 彼女の歌は、一人称が「僕」になっている曲ばかりだった。プロデューサーの高橋研の芸風がそうさせたのかもしれないが、彼女にはふさわしかったかもしれない。

 デビューしてから何年たっても、全然芸能人ズレする様子が無い…どころか、いつまでたっても居心地が悪そうな、どこか屈託を抱えているような彼女の佇まいが、好きだった。

 ちなみに、川村カオリは頭脳警察の第8作『歓喜の歌』にゲスト参加したりもしてました。

 『見つめていたい』とか、こんな曲、彼女以外の誰が歌える?

 もっと僕に強さがあればいいのに

 愛がなきゃウソさ 夢がなきゃウソさ
 空に描けるほど いつもいつも思うんだ だけどね
 愛だけじゃダメさ 夢だけじゃダメさ
 それが悲しくて 叫べなくなる僕だよ 僕だよ

             (川村カオリ/『見つめていたい』

 川村カオリは、日本人の父親とロシア人の母親の間に生まれた。
 当時、ソヴィエト連邦は、現在の北朝鮮なんか目じゃないくらい、日本にとってのバリバリの仮想敵国。
 そのせいで、彼女は、少女時代に凄絶ないじめを経験してきたという。

 彼女にとって、現実をそのままに歌うのは、つらい。
 だから、「私」を強く肯定してくれる存在として、「僕」が必要だったのではないか、と私は思う。
 川村カオリの曲に登場する「君」こそが、実は、彼女自身だったように思えてならないのだ。

 言葉だけじゃ心はまっすぐに伝わらないし
 涙だけじゃよけいに悲しみがつのるから

 国境線を越えて 今すぐ会いに行くよ
 どんな人が住んでる どんな花が咲いてる
 君の胸の大地には

             (川村カオリ/『僕たちの国境』

 国境線を越えて、と言うこのフレーズに、どれだけの人がリアルな重みを感じるコトが出来るだろうか。
 「どんな人が住んでる どんな花が咲いてる」…そんなコトには興味がないですか?

 川村カオリにとっては、国境とは、乗り越えられるために存在していたのだ、と、そう思う。

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 マイケル=ジャクソンについては、ひとそれぞれの感慨があると思う。
 私が彼に抱くイメージは、「白人になろうとして、ソレを自分の身体に実行してしまった男」である。もしもマイケルにこの強迫的衝動がなければ、彼のキャリアはもっと違ったモノになったはずだ。
 彼の作品、『Black Or White』を聴いても、「おいおい、嘘つけ。お前さん自身が、そんなコト信じてねえだろうが」とツッコミを入れていたモノだ。

 「ブラック・イズ・ビューティフル」と言うイズムを、マイケルは自分の人生において採用しなかった。コレは、絶対に忘れてはいけない事実だ。

 マイケルのキャリアで、個人的に真っ先に思い出すのは、USA for Africaプロジェクトの『We Are The World』を彼が(正確にはライオネル=リッチーとの共作だが)作った、と言うことだ。普通なら、『スリラー』とか『BAD』とかを一番に思い出すところなんだろうが、どっこい、私は筋金入りのへそまがりなのです。

 『We Are The World』については、あまりにも有名なので、今更ココで説明しない。

 当時、リアルタイムでこのプロジェクトの盛り上がりを目撃していた私の感想は、「とにかく歌詞がくだらねえ」と言うモノだった。

 彼らにあなたの心を届けてあげて
 そうすれば 誰かが自分たちを思いやってくれていると気づくはず
 今より強く、自由に生きていけるようになる
 神が私たちに 石ころをパンに変える奇跡を示してくれたように
 だから 私たちみんなで 彼らに救いの手を差し伸べよう

 私たちは 世界そのもの
 私たちは 神の子供たち
 今より素晴らしい明日を作るため さあ 始めよう
 今こそ選択の時 それは自分自身の生命を守ることなんだ
 本当だよ よりよい世界を作るんだ 君と僕とで

             (USA for Africa/『We Are The World』)

 キリスト教的価値観の押し付けも暑苦しかったが(ソレは先行したBand Aidの『Do They Know It's Christmas?』にも共通するおこがましさだった)、それよりなにより、「アフリカや第三世界の難儀は、アメリカ合州国をはじめとする帝国の存在に由来している」と言う現実をオミットした言い分が、気に食わなかった。
 シュバイツアー的偽善の匂いがプンプンしてました。ええ。
 宗主国から、お流れ頂戴、てなもんですか?

 歌っていて、さぞかし気持ちよかっただろう。
 聴いてる方だって、決して悪い気分になるはずがない。
 なんたって、困ってる人たちのために、みんなで善いコトをしようぜ、って歌っているんだから。
 歌に酔い痴れている時以外の、私たちのリアルの人生において、私たちがどんなにアフリカを踏みつけにしてきたのか、考えもしなかった。
 そんなコト、考えなくっていいんだよ。僕たちは今から善いコトをしようとしているんだから。マイケル=ジャクソンやライオネル=リッチーは、そう歌っていたように私には聴こえた。

 この歌が成功したのは、「善いコトをしよう」と呼びかけはしても、「この世界がこんな有様になってしまったのは、何故なんだ!」と歌ったりはしなかったからだ。
 『We Are The World』のせいで迷惑を蒙った人はいなかったと思う。
 アフリカで飢渇に苦しんでいる人たちのもとへ、わずかでも援助は届いた。
 歌手も、レコードを買った人も、誰も傷つかなかった。
 ほんのいっとき、世界は善意によってひとつになり、そして、また同じ事の繰り返しが待っていた。
 片方の手でアフリカの不幸を生産し続けながら、もう片方の手でチャリティー・ソングを歌う茶番を、私たちは目撃してしまったのだ。

 よく、「ミサイルを買うお金があったら、そのお金でどれだけのアフリカの飢えた子供たちを救えることか」と言うフレーズを耳にする。
 実はコレは話が逆で、ミサイルを作って売り込む輩がいるから、アフリカの難儀がある。
 「彼らに、私たちの心を届けよう」などと言うお節介を言う以前に、「アフリカに銃やミサイルを売り込んでいるのは、どこの国の企業なのか」、と言うことに思いを巡らせるべきなのだ。本当は。
 でも、そんなことを歌ってしまったら、誰も聴いてくれないし、ラジオ局もオンエアしてくれないだろう。コレは根拠の無い仮定の話ではない。
 そういう意味で、『We Are The World』は賢明だった。

 「賢明」ではなかった、別のチャリティー・プロジェクトについては、のちほど触れる。

 何一つ本当のコトを言い当てるコトもなく、誰一人傷つけるコトもない善行は、実は、偽善と呼ぶのではないか?
 当時、高校生だった私は、そんなふうに思っていた。いやあ、実にかわいくないですねえ。

 豪華で退屈な歌を、豪華な芸能人たちが歌い上げる、夜のヒットスタジオ的なイベント。
 私にとって、『We Are The World』はその程度の存在でした。ハイ。

 だから、私にとって『We Are The World』は、我が愛するブルース=スプリングスティーンやポール=サイモン、ホール&オーツ、ボブ=ディランが参加している、と言うくらいしか見所がなかった。
 スプリングスティーンの、「アフリカの困っている人たちのために、一晩時間をくれ、と言われたら、ノーとは言えないさ」と言う謙虚なコメントが救いだった。この手のチャリティーに対する態度として、きわめて正しい態度ではないか、と思った。

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 クイーン
 エルトン=ジョン
 アイザック=ヘイズ
 フランク=シナトラ
 ビーチ・ボーイズ
 リンダ=ロンシュタット
 フリオ=イグレシアス
 ジ・オージェイズ
 シカゴ
 レイ=チャールズ
 ジ・オズモンズ
 ポール=アンカ
 ボニー=M
 ブラック・サバス
 ロッド=スチュワート
 ティナ=ターナー
 ディオンヌ=ワーウィック
 サラ=ブライトマン
 オリヴィア=ニュートン=ジョン
 ローラ=ブラニガン
 ミリー=ジャクソン
 カーティス=メイフィールド
 シェール
 ライザ=ミネリ
 ………………………………………

 今挙げたミュージシャンの名前を見て、コレが何を意味するリストなのか、すぐにわかる人はほとんどいないと思う。

 かつて、南アフリカ共和国では、アパルトヘイト(人種隔離政策)が実施されていた。
 アパルトヘイトをご存じない方は、こちらを参照ください。
 我が日本は、当時、「名誉白人」と言う極めて不名誉な称号を南アからいただいていたのだ。
 …で、当時、国際世論の一部(残念ながら一部だった!)から非難を浴びていた南アは、悪名高きバントゥースタン政策を採用するんですな。

 その、偽りの「ホームランド」ボプタツワナに存在した(今も存在する)、豪華リゾート施設。
 その名も、「サン・シティ」。

 「アパルトヘイトの象徴」と呼ばれたこのサン・シティの中には、コンサート・ホールもあり、破格のギャランティに釣られてココで演奏する著名ミュージシャンが多数存在したのだ。

 先に挙げたリストは、このサン・シティで演奏したコトのあるミュージシャンの名前である。

 白人ミュージシャン以外にも、意外な名前が多数あって、驚かされる。
 特に、レイ=チャールズ、ティナ=ターナー、ディオンヌ=ワーウィックなどは、先に触れた『We Are The World』でもヴォーカルをとっていた人たちだ。
 アフリカの飢渇を救うためのチャリティー・ソングを歌う一方、同胞を差別するアパルトヘイトの象徴の地で、白人リゾート客のために演奏する。
 マンガだって、こんな滑稽な演出は考えつかないだろう。
 一体、人間って奴は、なんなのだ。

 それが、人種差別を承認しているコトにつながると言う自覚があったのかどうか。
 ミュージシャンだって人の子だし、営業上、いろんなしがらみもあるだろう。しかし、だったら、別の場所で『We Are The World』なんて歌わないでくれ。
 ミュージシャンにだけ、聖人君子であれ、なんて要求しているわけじゃない。
 ただ、人間であってくれ、と願っているだけだ。
 あんた自身が演奏している、その素晴らしい音楽に釣り合う人間であってくれ、と。

 このリストに登場するミュージシャンたちを、ダリル=ホールは「世間知らずの間抜け野郎」と指弾した。
 「てめえらがナニをやってるか、わかってて演ってたんだよな?」と。

 札幌の実家に置いてきてしまったが、1985年発表のアルバムで、Artists United Against Apartheid(=アパルトヘイトに反対するアーティストたち 以下、AUAA)による『Sun City』と言う作品があった。
 『We Are The World』から数ヵ月後にリリースされたアルバムだ。
 ダリル=ホールも参加している。

 こちらは、ブルース=スプリングスティーンのバック・バンド、E・ストリート・バンドに在籍していたギタリスト、”マイアミ”リトル=スティーヴン=ヴァン=ザントが言いだしっぺで実現したプロジェクトである。

 出来上がった曲群は、能天気なチャリティー・ソングではなく、極めて政治的にしてラディカルなプロテスト・ソング、レベル・ミュージック。

 プロジェクトの趣旨は、南アフリカのアパルトヘイトに非を鳴らし、音楽業界人として「アパルトヘイトの象徴であるサン・シティでは絶対に演奏しない」と宣言するコトだった。

 最初は、業界内の友人だけで、4、5人も集まって協力してくれたらイイや、と思っていたそうだが、プロデューサーのアーサー=ベイカーと一緒にあちこちに声をかけている内に、「聞いたぜ、俺にも参加させろよ」って連中が勝手に押しかけてくれたりして、最終的にはとんでもない数の豪華メンバーが、よってたかって1枚のアルバムを作るコトになってしまったのだ。

 断言するが、参加メンバーの豪華さ、楽曲の素晴らしさ、音楽史上における意義、どれひとつとっても、『Sun City』は1980年代におけるポピュラー音楽の最大の成果であり、画期的な事件であった。

 まずは、このPVをご覧いただきたい。

 どうっスか?どうっスか?

 コレを初めて観た、と言う方は、「コレはなんだ…」と戸惑われた方が多いかもしれない。
 PVに登場する出演メンバーを見ても、誰が誰だか全然わからない、と言う人もいるかもしれない。

 そんな方のために、野暮を承知で、ちょいと解説させていただこう。
 まずは、タイトル曲からだ。
 もう一回、先のPVを観ながら(聴きながら)、読んでいただきたい。 

 ───サン・シティ。
 アパルトヘイト政策の象徴である、豪華リゾート。
 ヨハネスブルグの目と鼻の先にあるこの施設では、ギャンブル、ポルノ、そして世界でも屈指のエンターテイナー・ショーが楽しめる…。
 ただし、白人客だけ───。

 暗転。

 銃声。

 流れてくる、「Ah~…Sun City」と言う、女声ハーモニー。※実は、マイケル=モンロー(元ハノイ・ロックス)とスティーヴ=ベイター(元デッド・ボーイズ)のヴォーカルでした。

 地を割り響いてくるかのような、マイルス=デイヴィスのトランペット。

 彼の地=南アフリカで、黒人たちを殴りつけたり、水平射撃を行ったりしている警察官の姿や、「ホームランド」に強制移住させられていく黒人たちの姿が、サン・シティでバケーションを満喫する白人客の姿とオーヴァー・ラップする。

 そんなクソッタレな現実を切り裂く、ラッパーたちの啖呵。
 RUN-DMCが、グランドマスター=メリ=メルが、デューク=ブーツィーが、カーティス=ブロウが、アフリカ=バンバータが、ビッグ=ユースが、リレーしながらアジテーションする。

 言いたいんだ、南アフリカで繰り広げられている、けったくそ悪い現実について…
 わかってるって 俺たちに出来る事って言ったら…
 サン・シティなんかじゃ、絶対に演奏しねえってコトさ!

             (Artists United Against Apartheid/『Sun City』)

 と。

 ココで、「I ain't gonna play Sun City!」と吼える目つきの悪いバンダナのあんちゃんが、このプロジェクトの立役者=リトル=スティーヴンである。

 ココから先は、疾風怒濤。
 ナマ(生硬)で直截な政治的メッセージが、ミュージシャンたちのリレー・ヴォーカルで叩きつけられる。

 第一パート/
 デヴィッド=ラフィン(テンプテーションズ)
 パット=ベネター
 エディ=ケンドリックス(テンプテーションズ)
 ブルース=スプリングスティーン

 第二パート/
 ジョージ=クリントン(大統領じゃない!ファンクの大立者)
 ジョーイ=ラモーン(ラモーンズ)
 ジミー=クリフ+ダリル=ホール(ホール&オーツ)
 ダーレーン=ラヴ

 第三パート/
 ボニー=レイット
 ジョン=オーツ(ホール&オーツ)+ルベン=ブラデス
 ルー=リード
 ボビー=ウーマック

 第四パート/
 ジャクソン=ブラウン+ボブ=ディラン
 ピーター=ギャレット(ミッドナイト・オイル)
 カシーフ+ノナ=ヘンドリクス
 ボノ(U2)

 ぶふう。書いてて、思わず鼻血出そうな豪華面子。俺、こいつらみんな、大好きだ!

 ロック、ラップ、ポップス、パンク、レゲエ、サルサ、ファンク、ブルーズ、ジャズ、ワールド・ミュージック…ヘヴィー・メタル以外の当時のほとんどのポピュラー音楽のジャンルを横断したかのような、ミクスチャーっぷり。
 くそう、なんてカッコいい曲なんだ…何回聴いても燃えてくるぜ…。

 曲の背景には、まさしく「革命的状況」と呼ぶしかないような南アの凄惨な映像が流れる。
 殺された、スティーヴ=ビコやキング師の映像も…。
 絶望的状況を歌っているはずのミュージシャンたちの姿が、やがて、祝祭のごときうねりと熱を帯びて、南アの「兄弟姉妹たち」の映像と重なっていく。
 観ていると、外に飛び出して、彼らと一緒に吼えたくなる…「その気」にさせる曲なのだ。
 アパルトヘイトに象徴されるレイシズムに、正面切って「NO!」と叫ぶためにも、この曲には絶対にファンクのパワーが必要だったのだなあ、と改めて思う。

 上記以外にも、バッキング・ヴォーカルではピーター=ガブリエルやピーター=ウルフ(J=ガイルズ・バンド)、ダリル=ハンナ(映画『ブレード・ランナー』『キル・ビル』のお姉さん)、リントン=クウェシ=ジョンソン、ファット・ボーイズ、ギル=スコット=ヘロン、ヴィア・アフリカ、ウィル=ダウニング、ボブ=ゲルドフ、ティナ=Bなどが大活躍。
 特に、当の南アからやって来たグループ、マロポエッツは、「この企画に参加すれば、帰国後は生命の危険すらある」のを承知の上で参加した、まさに命がけの熱演。
 他にもコンガのレイ=バレット、サックスのクラレンス=クレモンス(E・ストリート・バンド)、ギターのピート=タウンゼント(ザ・フー)、ドラムスのリンゴ=スター(元ビートルズ)&ザック=スターキー親子、シャンカール、サニー=オコサンなど、世界のトップミュージシャン達の一世一代の鬼気迫る演奏。

 ちなみに、アルバムに収録されている他の曲では、ロン=カーター、スタンリー=ジョーダン、トニー=ウィリアムズ、ハービー=ハンコックらがマイルスと一曲キメています(『Struggle Continues』)。ジャズに疎い私にも伝わってくる、黒く不穏な気配にゾクゾクしていました。
 他にも、スケール雄大なワールド・ミュージック、ピタガブのズバリ『No More Apartheid』。ポピュラー音楽が黒人音楽からどれだけ影響を受けてきたか、その点について彼は実に自覚的で誠実なミュージシャンです。
 ヒップ・ホップなどという言葉がまだ無かった当時としてはかなりクールな『Revolutionary Situation』。
 ラッパーたちが中心になって作られた『Let Me See Your I.D.』。外国人登録証の不携帯がまるで重犯罪扱いにされる日本の状況を考えると、当時の南アを笑えません。
 タイトル曲のVersion Ⅱなんてのもありまして、こちらはロック色が強いアレンジ。コレはコレでイイのだけれど、やっぱりVersion Iの底無しのパワーと比較すると、ちょっと弱い感じ…。
 そして、アルバムの棹尾を飾るのは、ヴォーカル=ボノ、ギター=キース=リチャーズ(ローリング・ストーンズ)+ロン=ウッド(同)によるブルーズ・ナンバー『SILVER & GOLD』。
 地の底のさらに底から響いてくるかのようなギター。呻きとも呟きともつかないヴォーカル。聞き届けられるコトの無い怒りが底光りするかような演奏に、今聴いても鳥肌が立ちます。

 タイトル曲に話を戻すと、歌詞は当時のアメリカの対南ア政策をこき下ろすわ、ロナルド=レーガンを名指しで批判するわ、いや、もう、遠慮が全く無い。
 その一方で、

 こうしている間にも、俺たちは、兄弟姉妹たちを裏切り続けているんだ

 とか、

 この世界を見回してみなよ とても見ちゃいられねえ
 どうして俺たちは、いつもいつも、間違った側についてしまうのだろう…

 とか。

 どうよコレ!
 『We Are The World』には絶対見られなかった、「弱い自分、正しくない自分、間違った世界に加担してきた自分」と言う自覚が言わせている、こういうフレーズ。
 あかん。萌える。

 テーマがテーマであり、またその態度が態度なモノだから、『Sun City』全編には、不穏、不逞な空気が流れている。プロテスト・ソングなんだから、当然っちゃ当然なんだが。
 拳を振り上げ、「オラ、こっち見ろよ!聞けよ!知らん顔してんじゃねえよ!」と挑みかかるかのような態度。
 気骨。反骨。土性っ骨。今や死語になりつつある、そんな言葉が、『Sun City』のミュージシャンにはよく似合う。

 当時をリアルタイムで経験していたおっさんから言わせていただくと、あの頃、アパルトヘイトに反対する世論なんて、存在しないも同然だった。

 一応、国際世論らしきモノが、か細い声でアパルトヘイトに非を鳴らしてはいたように見えたし、実際南アに対する経済制裁措置も行われていた。が、南アを経営していたのは現地の独裁者などではなく、欧米に拠点を置く多国籍企業たちなのだ。経済制裁なんて建前だけで、実際にはやりたい放題だったのは子供でも知っている。

 バブル華やかなりし頃の日本では、女房連中がCMに乗せられてスウィート・テン・ダイヤモンドなんてシロモノを欲しがっていたが、そのダイヤモンドが、南アの黒人たちの文字通りの膏血を吸って輝いているのを、知っていたのか、知らなかったのか。 

 アフリカを含めた第三世界の不幸は、ほとんどの国において、豊富な資源が存在していた、と言うコトである。
 南アにおいても、先に紹介した曲『SILVER & GOLD』が喝破したように、地球上でたまたま南アの地に金銀ダイヤやウランが偏在していたために、かの地の先住民たちは奴隷以下の辛苦を舐めさせられてきた。

 偏在しているのは、資源だけではない。
 水も、食料も、安全も、力も、偏って存在している。
 そして、忘れがちだが、言説、言論と呼ばれるモノも、この世界においては偏在しているのだ。

 この世界を満喫している、超大国アメリカや我が日本のエスタブリッシュメントの言い分は、それこそ毎日毎日、百万言を超えて垂れ流されている。
 この世界で呻吟している、南アの黒人や、空爆を受けている最貧国の子供たちの言い分など、ほとんど語られるコトなんかないではないか。

 事実、遠い南アでの黒人たちの難儀なんて、新聞でもニュースでもほとんど語られるコトは無かった。
 現在で言えば、イスラエルによるパレスチナ侵略に対して非難がましい世論がほとんど存在しない現実に、かなり近いモノがあった、とイメージしてもらっていいと思う。
 誤解の無いように付け加えておくと、パレスチナ侵略は、アパルトヘイト以前から現在まで存在し続けているのだが。
 さらに言うと、アパルトヘイト制度下の南アとイスラエルのやり口は、チョムスキーやサイードが指摘しているとおり、極めて似ているのだ。

 『Sun City』は、「何故、この世界は、こんな有様なのか」、それについて歌ってしまった。

 アパルトヘイトが見過ごしにされている状況に加担している人間は、冷水を浴びせられた気分だっただろう。
 南アと取引を続けてきた、背広を着た犯罪者たち。
 レイシズムを正当化するために、一生懸命本を読み、文章を書いてきた似非知識人。
 多国籍企業の役員室から送り込まれてきた政治家たち。
 そして、高額なギャラに転んで、サン・シティで演奏して帰って来た、おめでたいミュージシャン。

 『We Are The World』に出演した何十人ものミュージシャンのうち、『Sun City』に名乗りを上げたのは、スプリングスティーン、ホール&オーツ、ディラン、ゲルドフのわずか5人。

 無意味な問いかもしれないが、それでも、当時の私は思った。
 マイケル=ジャクソンは、ポール=サイモン(翌年『グレイスランド』で物議を醸すコトになるが私は好きです)は、スティーヴィー=ワンダーは、何故、『Sun City』に参加しなかった(出来なかった)のか、と。
 大人の事情(=芸能人的事情)ってモンがあるんだろうな、しょうがねえよな、とも思ったが。

 そう。
 まさに、その、「大人の事情」が、この『Sun City』プロジェクトに対して、どのように反応したのか。

 AUAAによって、南アの現実が大きくクローズアップされた時、反動的な反応も強かった。
 いわく、
 バランスを欠いている。
 公正中立ではない。
 偏向している。
 反体制的だ。
 など、など。

 私は今でも思っている。
 「公正中立」な言説、バランスの取れた意見、そんなモノは存在しない。
 偏向していない意見なども、存在しない。
 逆に、そのようなレッテル貼りによって、相手の言説を貶め、自分たちが不偏不党で公正中立な存在であるかのように装う輩を、私はあやしむ。
 カウンター・パンチのコトをアジテーション、プロパガンダと呼ぶのなら、ソレは大いに結構ではないか。

 南アフリカでは、当然、『Sun City』は発禁になった。
 アメリカの半分の州でも、『Sun City』のオンエアが自粛された。
 保守的な地域のラジオ局は、この曲を放送するコトを拒否したわけだ。
 空前の豪華メンバー、素晴らしい楽曲、音楽ファンの間では傑作と言われたPV。
 しかし、『Sun City』は、『We Are The World』の何十分の一かくらいの売り上げしか記録できなかった。ヒットチャートでも、確か、上位には入れなかったはずである。

 コレが現実だ。

 ソレでも、この『Sun City』が発表されるや否や、音楽業界では「サン・シティへの出演は恥ずべき行為である」と言うコンセンサスが成立した。
 槍玉に上がったクイーンは、大慌てで「今後は南アフリカでは演奏しない」と声明を出し、その後は、頼まれもしないのにせっせとチャリティー・イベントの類に積極的に参加するようになる。
 それ以外の、サン・シティの常連ミュージシャンのほとんどはだんまりを決め込み、しかし、以後、サン・シティに出演する者はほとんどいなくなった。

 ほんの少しだが、世界は変わったわけだ。

 6年後の1991年、ネルソン=マンデラは釈放され、アパルトヘイトは撤廃された。
 『Sun City』の存在が、現実世界においてどれほどの影響力を与えたのか、誰にも確かめようも無いコトだろうが。

 2010年のワールドカップは、その南アフリカ共和国で開催される…。

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 坂口安吾の『堕落論』を読み返して、「63年前の文章だってのに、なんてロックなおっさんなんだ…」と、改めて感嘆してしまった。

 反対に、日本人であるコトが、最大の、もしくは、唯一のアイデンティティであるかのような物言いの輩が、最近目についてしょうがない。特に、ネット上で。
 不景気になると、若年層を中心に排外主義や国粋主義が台頭するのは、歴史が教えてくれるところであり、ナニも目新しい現象ではない。
 つまり、この何十年か、俺たちは何にも変わってない、ってコトだ。

 ネット右翼のいい気な言い分は、アパルトヘイトやガザ地区侵略や「水晶の夜」と地続きである。

 それでも、国境は乗り越えられる宿命にあり、ソヴィエト連邦が崩壊しアパルトヘイトが消滅したように、国家は永遠ではありえない。

 夭折した川村カオリの歌を、私はこれからも愛さずにはいられないだろう。

 黒人でありながら、サン・シティの常連だった「ソウルの神様」レイ=チャールズは、2004年に死去した。

 『Sun City』に参加したジョーイ=ラモーン、デヴィッド=ラフィン、エディ=ケンドリックスらも、既に鬼籍に入ってしまっている。

 黒人でも白人でもなくなったマイケル=ジャクソンは、つまり、この世界の絶えざる人種的相克について、さしたる意見も態度も表明しないまま天国に旅立ってしまい、もう地上(ここ)にはいない。

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2009年2月12日 (木)

低い家の女の子

 ああ。
 また血圧が高い目だ。

 多分、今回もグダグダになる。
 いつもの調子です。
 たいしたモノはありません。 
 思いつくまま、書き散らかすコトになりそうです。
 気にしないコトです。
 俺も気にしない。 
 見直さない。整えない。気にしない。
 あとは知らない。

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 男らしいぜ つらい過去を自慢できる大人になれて
 お前は弱音を吐いてはいけない立場に向ってる
 通りすぎた時代にいかにもお前がいたかのように
 次の世代のならわしにも食い下がれるぜ
 でも この不安はいったいどこから来るんだろ

           (泉谷しげる/『流血のならわし』) 

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 昨日、長男坊の私立高校の入学試験があった。
 いじましいハナシで申し訳ないが、受験料は1万5千円した。安くねえ。
 もしも入学したとして、入学金やら学費やら制服代やら教材費やら、当然だが諸式、公立高校とは別次元の価格設定。
 公立高校にいけるか、私立に行く破目になるか、たったソレだけの違いで、向こう3年間の我が家の家計は大きく違ってくるのだ。誇張抜き、言葉どおりの意味で、天国と地獄。

 私は、長男坊に繰り返し言っている。

 「親孝行せいとは言わん。しかし、もしも私立高校にしか引っかからなかった場合、お前が高校生の間の3年間、俺はお前に毎日意地悪してやるからな」

 当たり前だろう。
 愛なんてモンは、天然自然に生えてくるわけじゃないんだよ。
 家族間の愛情だって、銭、カネに左右されるのだ。
 …と、自分で書きながら、「ひでえ父親…」とひとりごちる私。

 みんなビンボが悪いんや。

 今日は生臭いハナシになる。

 今月の給料の嵩を見て、嫁が嘆いていた。
 「ちょっと…コレじゃ、今月はギリギリだわぁ…つか、足んないわぁ…フゥ…」

 私の勤め先の給与体系は、固定給プラス歩合給の設定である。
 打ち明け話になるが、固定給は最低賃金カツカツ。コレだけ見れば、高校卒業したてのオニイチャンとどっこいどっこいの数字である。
 その上に、毎月の売上に応じた歩合給が別途加算されるのだ。
 だから、給料の嵩は、毎月違う。
 景気がイイ時は当然売上も上がるので、まあ、ちょっとだけオイシイ思いをさせていただいたコトもありました。
 ソレも今では遠い、遠い、昔のハナシである。
 不況下の昨今、求人広告に予算を割ける事業所なんざそうそうあるわけも無く、ぶっちゃけたハナシ、全社の売上は対前年比で見ても、深刻を通り越して笑ってしまいそうなレベルにまで落ちている。
 コレは求人広告で食っている業者なら、多少の差は有っても皆共通している、危機的状況である。
 売上に対する歩合で食っている私ら営業職の場合、売上が激減している、と言う現実は痛い。給料が単純に半減する、と言う訳では無いが、「昨年同時期と比較すると3割、4割収入が減った」と言う同僚は少なくない。

 イヤ、もう、まいった。
 嫁は「お願い…早く確定申告の手続きして。少しでも早く、還付金取り返して…」と言い募る。

 今では、私も含めた誰もが、猟犬のように走り回って営業しまくっている毎日である。
 「飯の種(=食)」と、ソレと、「自分の居場所(=職)」を守るために、だ。

 そこここで日々繰り広げられているのは、文字通りの意味での「万人の、万人に対するむきだしの戦い」であり、容赦無しの「食と職の奪い合い」である。

 ココから先、誤魔化しも言い訳も偽善も出る幕が無い時代に、私たちは生きている。

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 貧乏人の中で働いていれば、だれだってときにはカール・マルクスにかぶれずにはいられませんよ──それでなければ、いっそ聖書にかぶれるかだ。
           (カート=ヴォネガット=ジュニア/『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』) 

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 ヴォネガットの青臭くも若々しく、そして侠気に溢れるアフォリズムに、あなたも感動して欲しい。
 私はそう思って、上の一節を引用した。
 中学2年生だろうが42歳の女房子供持ちだろうが、いつまでもこの一節に感応する魂を持っていて欲しいモノだ、と、心からそう思う。
 コレを鼻で哂うような奴とは、私は一生友達になれないだろう。どうせ、向こうの方から願い下げだろうが。

 すんません。
 この段落は、すっげーすっげーダルいハナシになりそうです。

 一方、わが日本には、「若い時にマルクスにかぶれなかった奴は馬鹿。もう若くないのに、まだマルクスにかぶれている奴はもっと馬鹿。」と言う意味のアフォリズムがある。
 「まだかぶれてる奴は」と言う物言いには、「思想やイデオロギーと言うモノは、解釈され、消費され、新しいものに次々と上書き更新されていくモノに過ぎない」と言う、日本独特の知的伝統がうかがえる。あと、何故かむやみと早熟を尊ぶと言う、もうひとつの日本の伝統も。

 マルクスでもフーコーでも浅田彰でもいいのだが、日本においては、新しい論がかつてあったモノを乗り越えていく、と言う形ではなく、知的アクセサリーとして軽薄に乗り換えられてきたのだ。
 アレはもう古い。
 アレは有効ではない。
 理論は実践される前に古くなり、ナニも確かめられないうちに陳腐化される。
 戦前から存在し、ポストモダンの流行以降、特に顕著になった、この手の悪しき「知のゲーム化」を加速してきたのは、ぶざまな意味における「思想」などですらない。

 彼らが持ち合わせているのは、「状況に対する関数」だけである。

 ノーム=チョムスキーは、欧米のポストモダニズムを「社会参加出来ない衒学者たちの功名争い」と喝破したが、なに、そんなのはポストモダン以前からの日本の知的伝統でもあるのですよ。

 だから、知識人の転向はたやすく起こる。
 「昨日勤皇、今日佐幕」の時代から始まって、「大政翼賛から民主主義」に象徴される、日本の軽薄な知的伝統。共産党から保守反動まで、その触れ幅の広さと、転向に対する寛容な精神風土は、一体ドコから来るのだろう。

 転向を正当化するのは、「現実は刻々と移り変わる。起こってしまった現実は既成事実として=つまり所与の動かしがたいモノとして受け容れるのが、大人の叡智と言うモノ」…と言う考え方だ。
 「主義」「思想」は常に「現実」に負けてきた。そして、自分の「主義」「思想」がたやすく「現実」に枉げられていく過程において、桎梏や蹉跌を自覚すらしなかった知識人が如何に多かったコトか。
 あいつらが、「主義」「思想」を、「解釈され、消費されるための知的ゲーム」にせっせと貶めてきたのだ。

 かつての全共闘の闘士が、『いちご白書をもう一度』よろしく、長髪を切って就職活動した挙句に、何年か経ったら管理職に上がったりもする。
 彼らがかつて掲げていた旗、今振っている旗は、乗り換え可能な方便に過ぎないのだろう。

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 子供の手術の為に 体売らなきゃならない
 そしてあの娘は未来を捨てた
 正直に生きていけば 犯罪者にされるだけ
 そしてあの娘は法律に殺された
 美談で飾られるくらいなら
 女を犯した罪で 新聞の片隅に
 恥を晒してた方がまだマシさ

              (PANTA/『R★E★D』)

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 別に珍しいハナシではない。

 収奪に泣いてきた誰かがいた。
 自分たちが傷つけられてきたその分に見合うだけ、この世界にカウンターを喰らわせたい、と思った時、
 傷ついてきた者・貧しい者・この世界で「低い」とされている者の為に戦おう、などと唱えたモノ好きは、マルクスとイエスくらいしか見当たらなかったのだ。 
 だから、20世紀には、ある者はマルクスの旗を掲げて戦った。
 ある者は「解放の神学」の旗を掲げて戦った。
 ただ、そういうコトなのだ。

 この世界を「満喫」している人間にとっては、せいぜい「世界」は解釈され、消費されるべきモノであって、間違っても「革命」されるべきモノなどではない。
 解釈して消費するコトが知的だと勘違いしているボンクラには、一生わからない。

 マルクス、エンゲルスから、ゲバラやカストロやホー=チ=ミンたちがリレーしたのは、「この世界で泣いているすべての人を解放するまで、俺たちは幸福を受け取るコトが出来ない種類の人間なのだ」と言う覚悟である。
 彼らの「この世界のどこかの誰かの苦痛」のために戦うのだ、と言う、途方も無い「やさしさ」を前にしては、私などは呆然とするばかりである。

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 一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於いても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。
 おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。
 重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
 私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
 最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。

           (太宰治/『如是我聞』)             

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 たぶん、こんなのはもう10年ぶりくらいなのではないか。
 本当に久しぶりに、毎週楽しみに観ているテレビドラマがあります。

 『銭ゲバ』。

 初めて原作を読んだのは小学生の頃だったが、女房子供持ちのこの年齢になって、このマンガのドラマ版を観るとは、感慨深いモノがある。
 で、そんな感慨を措いても、このドラマ『銭ゲバ』は面白く、そして素晴らしい。
 何かが憑依したかのような松山ケンイチの演技には、「彼でなくては、この作品は失敗していただろう」と思わせる、真剣勝負のテンションが漂っている。彼以外の俳優に演らせていたら、このドラマは学芸会にしかならなかったのではないか。
 椎名桔平も、観ていて「この糞親父、殺してやりてえ!」と言う気にさせてくれる、実に下衆な演技で、まことによろしい。それに、こんな奴って、いるよな、実際。
 そう。かつていたし、今もいるのだ。こんな奴が。

 そして、そう遠くない昔にはあったのだ。いや、今もあるのだ。こんな貧しさが。
 ひやかしのように語られる「びんぼー」どころではなく、「貧困」と綴られるべき貧しさが。
 私たちのすぐ近く。あるいは、誰かの人生そのものとして。
 いや。強がりはよそう。
 私たち自身の人生そのものとして。

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 時代する都市よ
 その安全のために新しい差別をつくり出す
 百ある甘い話より一つの不安が大きな風穴を開ける
 多くを信じさせるために大いなる不安を言い当てる
 天文学を前にしては人間なぞタメ息しかつけない

 難しい話は過去そのもの
 ハレルヤ……

 めざめを知らず 気づくコトを恥じる
 すごい数の中で生きる 息もできないほどに
 これが現代の大人であり 100年持たない建物にいる
 たったひとつの愛のために新しく差別をつくる

           (泉谷しげる/『ハレルヤ』)

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 もう何十年も昔の話だ。

 札幌のはじっこで、当時私は5歳か6歳だった。
 家と、保育所と、近所の遊び場(公園や空き地や採石場)が世界のすべてだった、頑是無い頃の話だ。

 近所に、変わった家があった。
 何故かその家は、周囲の家々や目の前の道路よりも、2メートルくらいも低い窪地のような場所に建っていた。ぽつん、と、1軒だけ。
 平屋の、文字通りのあばら家で、だから、私が道路に立って見下ろすと、その家の屋根が5歳の私の目線とほぼ同じ高さに見えたりした。

 その家は、低かった。
 子供心にも、その家の「低さ」は、取り繕いようの無い「貧しさ」や「みすぼらしさ」を、そのまま表現しているように思えた。

 その家には、2歳か3歳くらいの女の子が、一人いた。
 その子の身なりと言えば、いつも肌着のシャツを1枚身に着けただけで、他には何一つ着ていなかった。 
 パンツも、靴も、はいているのを見たことが無かった。
 薄汚れたシャツ1枚だけの格好で、前もおしりも晒したままで過ごしていたのだ。
 さらに、衛生状態も栄養事情も悪かったのだろう、その女の子は常に青っ洟を垂らしていた。まぁ、あの頃、洟を垂らしていた子供なんて珍しくも無かったのだが…。
 その子はいつも「低い家」のそばか、自分の家より高い位置にある目の前の道路の上で、裸足で遊んでいた。
 いつも一人で。

 その女の子に、当時の私はどう接していたか、と言うと。

 彼女を見かけるたびに、友達と一緒になって、こう呼んだものだった。

 「こじき!こじき!きたないこじきの子!」

 自分より大きな子供たちが、遠巻きから笑いながら、「きたないこじき」と自分をはやしたてている。
 2歳3歳の子供でも、言葉の意味は判らなくても、悪意や害意は伝わる。
 「こじき」呼ばわりされると、その子は必ず泣き出した。
 それが面白かったのだ。
 友達の中には、時には、その子に小石を投げる奴もいた。
 私も投げたかもしれない。
 いや、きっと、投げたのだろう。
 小石がその子に当たり、その子が泣き出してしまうと、きまって私たちは「きたない、くさい」と笑いながら、その場から逃げた。

 その子が泣き出してしまうか、「低い家」によちよち歩きで逃げ込んでしまうまで、私たちは、彼女をからかいいじめるのをやめなかった。

 「低い家の女の子」は、いつもひとりぼっちだった。
 いつも一人で遊んでいて、誰か他の子供がそばにいる時は、必ずその子に泣かされていた。
 長じてのちに抱いた疑問だが、当時、私たち子供に、「乞食」などと言う言葉を、悪意を込めて教えたのは、いったい誰だったのだろう。教えられた、と言うより、身の回りの大人たちの何気ない会話の端々から、「そういう」悪意や差別意識を、子供は子供なりに受け継いでいくのだろうか。

 「低い家」にも、大人…おそらく、あの女の子の親がいたはずなのだが、昼間はいつも働きに出かけていたのだろうか、私たちは目撃する事は無かった。
 「低い家」の大人は、自分たちの子供が、「こじきの子」などといじめられて泣いているコトを知っていただろうか。
 知っていただろう。
 そして、くやしかっただろう。
 当時は、そんなコトを想像したコトも無かった。
 自分自身が貧乏人の子せがれだったくせに、自分たちよりもさらに一段貧しくみすぼらしい子を、いじめて喜んでいたのだ。

 のち、小学校で自分自身がいじめられたりなどの経験を持ったせいもあるのだろうか。ソレとも、『銭ゲバ』の、幼い風太郎が貧しさゆえにいじめられるシーンなどが作用したのだろうか。ある程度の年齢になると、あの「低い家の女の子」の事を、激しい後悔を持って思い出すようになった。

 今は思う。
 他人を差別する、と言う事は、端的に言えば、相手に対し「お前はいつまでもそのまま、低いまま、卑しいままでいろ」と言う呪詛を投げているに等しいのだ。

 あの「低い家」について、野次馬に言わせれば、「親が甲斐性が無いのがそもそもいけない」「子供に服くらい着せろよ、だからいじめられるんだよ」「そういう差別を経験してみんな強くなるんだよ、それが世の中ってもんなんだよ」などなど、いくらでも言えるだろう。
 しかし、あの女の子が、あんなふうに傷つけられ、泣かされても、「しょうがない」「無理も無い」「それが世の中」などと言う意味のわからない言葉で辻褄を合わせようとする心性と言うのは、なんともみじめな精神のありようではないか。

 あの「低い家の女の子」の人生にとって、私は一体どんな存在だったのだろう。
 それを想像しただけで、私は暗澹たる気持ちになる。

 彼女はその後、どんな人生を送ったのだろう。

 神様、お願いです。
 どうか彼女が、幸せになっていますように。

 わかってる。そんなモノは、私の身勝手なホザキに過ぎない。
 他人の足を笑って踏んでおきながら、幸せもへったくれも無いものだ。

 私に出来るコトは、「卑劣」と言う言葉の意味を噛みしめるコトくらいだ。

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 「世の中、銭ズラ」「銭のためならなんでもするズラ」と言う蒲郡風太郎の口癖は、感動的なまでに正しい。

 私たちは、ひやかしのように「びんぼー」を語る事を覚え、まるで、「購買力イコール人間力」であるかのように、他人や、この世界のあれやこれやを値踏みし、値(あたい)をつけてきた。
 「資本」や「市場」にとって、人間も含めたこの世界のすべては「値段がつけられる・売り買い出来るモノ」である。にも拘らず、「資本」や「市場」は、「この世界には値段がつけられない、売り買い出来ないモノがある」かのように振舞うのだ。

 理由は二つある。

 一つは、「資本」や「市場」の力が及ばない世界が存在する=「資本」や「市場」は、人間や国家の「理性」や「道理」によってコントロールされている・されうる、と言う幻想を維持するため、である。言い換えれば、実際には「資本」や「市場」には本質的に理性も道理も存在しない。もともとが、没義道もイカサマも何でもありの鉄火場なのだ。ソレを、「厳正なルールや理性的なプレイヤーで構成されている観光地のカジノ」のように見せかけてきて、しかし、鉄火場は破綻した。

 二つ目の理由は、「資本」や「市場」は、万能でも無ければ全能でも無い、と思われていなければならないからだ。
 何故なら、私たちは他者や世界に点数をつけたり、値踏みをするコトで、かろうじて自己確認出来る。私たちにはまだ、決断や価値判断を下す主体性が残っている、と思いたいのだ。私たちは、「資本」や「市場」に値踏みされるような存在ではなく、なにがしか侵しがたい尊厳を持った存在なのだ、と信じていたい。

 現実には、「資本」や「市場」から見れば、私たちは交換可能な存在としてのみ価値があり、常にその価値は変動している。

 正社員ですか?派遣ですか?
 今の会社の見通しは?
 年収は?預貯金は?
 年金には加入してますか?生命保険には?
 家族構成は?
 健康状態は?
 タバコはお吸いになりますか?
 この週末は、どのようにして過ごしますか?
 お友達は?
 よろしい。では、この素晴らしい購買力を、あなたに!

 こんな具合に、だ。

 「資本」や「市場」が、私たちを値踏みしたその価値の騰落に一喜一憂するコトが、私たちの人生の大部分なのだ、と言っても差し支えない。

 「人間は銭ズラ。
 銭があればなんでも手に入るズラ。
 ひとの心も銭で動かして見せるズラ。」

 風太郎の信念がかくも極端で非妥協的なのは、世間と言うモノが彼に徹底的に教えてくれたその結果である。
 銭、カネ、現ナマ、キャッシュ、マネーが無ければ、この世界には居場所など無いのだ、と言う現実。
 しかし、風太郎にとっては、銭、カネとは、彼の信念を確認するための道具でしか無いのではないか…。
 そう思わせるのは、彼のこの告白である。

 「わたしは美しいものがすきズラ。
 美しいひとの心がほしいズラ。
 だけど ひとの心が美しいとは思わんズラ。
 この世に真実というものがあれば…命をかけておいもとめるズラ。」

 銭、カネで買えないモノは無い。この世に真実など無い。
 風太郎はその現実を、私たちのように誤魔化したりせずに、全身全霊で徹底的に表現してきただけなのだ。
 そんな風太郎の銭ゲバな価値観をぶち砕くような存在が、この『銭ゲバ』には最後まで登場しない。
 登場人物の多くは、風太郎のカネの前に膝を折り、ある者は膝を折らなかったために風太郎に消されていく。
 しかし、風太郎自身は、悪事を重ねる一方で、カネでは買えない「美しいもの」にいつか出会いたいと強く願い、そしてついに果たせない。

 風太郎一人が銭ゲバなのではない。
 私たちのこの世界そのものが、もともと銭ゲバ的なのだ。

 ラストシーンにおいて、敗北したのは、風太郎なのか?
 それとも、私たちのこの世界の方なのだろうか?

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 高校生の頃、母親と、その友人たちの会話に同席したコトがあった。
 母親たちの話題は、私たちが小さい頃暮らしていたあの町──「低い家」があったあの町に及んだ。

 「そう言えば、〇〇さんっていたわよねえ…」

 私はその時、「低い家」が〇〇さんと言う家族のモノだ、と初めて知った。

 「あの頃、〇〇さんの旦那さん、仕事に失敗して、一番大変な時期だったのよねえ…」
 「そうそう、〇〇さんのとこの、一番下の娘さん、なんて言ったっけ…」

 聞きながら、私は心臓が破裂しそうな思いだった。

 「小さい頃は、いつも鼻水を垂らしていて、お世辞にもかわいいとは言えない子だったんだけどねえ」
 「〇〇さん、あれから少しずつ暮らし向きも良くなって、引っ越して行ったのよね」
 「でね…その娘さん、今、中学3年生なんだけど…小さい頃からは想像も出来ないような別嬪さんになってるのよ、コレが!」
 「ああ、見た見た、凄い美人になってたわねえ。人間わからないモンよねえ」

 …ちょっと待て…

 なんだ、ソレは…

 彼女の人生に、アレから一体ナニが起こっていたと言うのか。

 神様。
 ココは、笑うトコロなのか?

 ソレとも、胸を撫で下ろすべきなのか?

 わかんねえ。わかんねえよ。

 ああ。でも。でも。

 俺はちいさい。
 俺は低い。
 誰よりも。だれよりもひくい。
 そして、誰もが、いつまでも低いままではない。

 その日の夜、俺は、「低い家の女の子」に、「ごめんね」と謝る夢を見たんだ。

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 「こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。この星は夏は暑くて、冬は寒い。この星はまんまるくて、濡れていて、人でいっぱいだ。なあ、赤ちゃん、きみたちがこの星で暮らせるのは、長く見積もっても、せいぜい百年くらいさ。ただ、ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ、いいかい──
 なんてったって、親切でなきゃいけないよ」

           (カート=ヴォネガット=ジュニア/『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』) 

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Photo
 ↑ もう、勢いだけで、ドラマ版『銭ゲバ』の松山ケンイチ描いてみた。
 …男キャラは難しいなあ。

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2008年12月29日 (月)

世界を騙した男

 年末年始の間に、普段観ないアニメや映画を観ようと思っています。

 アニメでは、かねて観たいと思っていた『狼と香辛料』『秒速5センチメートル』『フリクリ』。

 映画では、中村3曹さんオススメの『Diary Of The Dead』、それとマーティン=スコセッシの『Shine A Light』がめっさ観たいんだが、映画館まで行けるコンディションじゃないので、DVD発売まで待ちます。
 個人的にスコセッシの作品で一番好きなのは『GoodFellas』。なんつっても、シド=ヴィシャスの『My Way』からデレク&ザ・ドミノスの『Layla』につながるエンディングがたまんねえんだよな…。と思い出してしまったら、もういけない。
 今日のへヴィー・ローテーションは、ピストルズとクラプトンに決定しました。

 でもね、

 『God Save The Queen』や『Pretty Vacant』聴いてたら、横で、が嫌がるんですよね。
 ただひと言、「うるさいわ、このバンド」ですと。
 なんでだよう。こんなにロマンチックな音が、なんでわからないんだよう。ヽ(*`ε´*)ノ

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 1978年。
 セックス・ピストルズの解散直前期。
 ジョニー=ロットン(現ジョン=ライドン)の、超有名なあの発言。





 「ロックは死んだ。」






 コレを多くの人が真に受けて、ソコからロックにとっては「出口無しの閉塞状況」が生まれたわけだ。

 アレからちょうど30年。
 その間にキャリアをスタートしたミュージシャンたちは皆、「死んだはずのロック」をあえて演奏する意味について自覚的であるコトを強制されてきた、と言える。
 1978年以降、ロックは「自明」な価値を失って、「まず対象化され、批評されてからでないと、演じるコトも聴くコトも出来ない」、と言う状況が発生して、そのまま2008年現在まで来てしまった。
 げに恐るべしはジョニー=ロットン。
 あのたったひと言で、ロックを金縛りにし、文字通りの袋小路、どん詰まりに追い込んでしまった。

 1975年というのは奇妙な年である。
 この年、アメリカでは、ブルース=スプリングスティーンの畢生の傑作『Born To Run』が生まれている。
 同年、イギリスではセックス・ピストルズが活動開始。(『Never Mind the Bollocks』は翌1976年のリリース。)

 かたや、「ロックン・ロールの未来」と謳われた男。
 かたや、「ロックは死んだ」と言い放ち、ロックにトドメを刺す運命を持って生まれたバンド。

 ロックの光と影、生と死、陽と陰、誠実と軽薄とをそれぞれ好対照に象徴するミュージシャンが、同時に世に出た、と言う意味で、ずっと長い間、私には奇妙な符合に思えてならなかったのだ。

 スプリングスティーンは、古典的なロックの属性を一身に引き受けながら、なおかつ強烈な作家性によって、ファンからの絶大な信頼を勝ち得てきた。
 彼にとっては、ロックは「自明の価値」であり、信仰と忠誠心の対象である、とすら言える。そう言う意味で、彼は「ロックそのもの」である。
 スプリングスティーンやローリング・ストーンズなどは、彼らが他者(たとえばジョニー=ロットン)から対象化される場合はあっても、彼ら自身にはわざわざロックを対象化する必要が無い。

 一方で、ピストルズ以降のミュージシャン達には、ロックに対してどうしても批評的なアプローチから入らざるを得ないと言う、歴史的状況がある。
 なにせ、一度死亡宣告を受けた音楽を、これからわざわざ演奏しようと言うのだ。
 宣告を聞かなかったフリが出来れば平和なモンだが、どっこい、音楽マスコミもリスナーも、みんな「ロックは死んだ」と言う共通認識の上で踊っている。
 「死体の上でいかに踊ってみせるか」と言う残酷なテーゼが、ミュージシャンを苛んできたのが、この30年間だったのだ。

 スプリングスティーンやストーンズたちは、自分自身が「古典的なロック的諸価値」を体現している。
 しかし、ピストルズ以降のミュージシャンたちは、「ロック的諸価値」が相殺されている前提を生きていかなければならないから、苦しい。
 だから、「ヘイル!ヘイル!ロックン・ロール(ロックン・ロール万歳)」なんて無邪気に叫ぼうものなら、「思考停止」と揶揄されたりする。
 ストーンズあたりは、「伝統芸能」とか「乗り越えられるべきダイナソー・ロック」とか目されて、後発ミュージシャンからは批判の対象になったりもした。
 「1972年の時点で解散していれば、ストーンズは伝説のバンドになれたのにね」とイアン=ブラウン、ジョン=スクワイアは語ったが、彼ら自身もストーンズ・ローゼズ解散後のソロ活動では「健闘している」と言うのが精一杯の状況だ。ストーン・ローゼズは伝説のバンドになれたかもしれないが、今年デビュー45周年を迎えたストーンズと、どちらが幸福なのか、私にはわからない。

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 でも、ちょっと待て。

 「ロックは死んだ」発言のその直後、ジョニー=ロットン自身がピストルズのラスト・ステージ上から言い放ったもうひとつの台詞を、みんな聞き落としていないか?




 「騙されてたって気がしないかい?HA!HA!HA!」




 ( メ`ω´)/ ヲイヲイヲイヲイ
 そりゃねえだろ大将!

 つまりこの30年間と言うのは、「稀代のトリック・スター」ジョニー=ロットンの最後っ屁を、みんなが真に受けて呻吟している姿を、「天才コメディアン」ジョン=ライドンが哂いながら眺めていただけ、ただソレだけだったんスか?

 「ロックは死んだ」発言を無かったコトには出来ないし、今更聞かなかったフリも出来はしない。
 だけど、「(その発言も含めて)騙されてたって気がしないかい?」と言われてみれば、音楽シーンの景色も、全然違って見えてくるような気がしないか?

 ピストルズが金の為に再々結成したのだって、結構である。大いに結構である。
 当のジョン=ライドンが、「パンクを神聖視しないでくれよ」と言っているじゃんよ。

 私の場合は、少なくとも今は、金縛りから脱して、以前より自由に音楽を聴けるような気がする。

 仮にいつの日か、ブルース=スプリングスティーンとジョン=ライドンがステージで共演するようなコトがあっても、私は驚かない。
 いや、むしろ、観てみたい。
 1975年に、全く真逆の意味でそれぞれロックの世界を震撼させた、「ロック・スター」と「トリック・スター」の夢の競演。
 何もかもが好対照なこの二人のスターが、同じ曲を一緒に演奏するシーンが、実現するコトがあるだろうか。
 その時二人は、どんな曲を演奏するのだろう。

 …案外、ABBA(アバ)の曲だったりしてね!(※ブルースもジョンもABBAの大ファンなのですだ)

 と言うわけで、今日のへヴィー・ローテーションは、ABBAに変更になりました!

 コレはオススメですよ奥さん!<誰が奥さんか
 一家に一枚、ABBAのベスト!
 ABBAを聴いてりゃ、万事オーライ!
 紅白観るくらいなら、ABBAですよ、ABBA!

 …って言ってたら、『相棒』スキーの嫁に殴られました。

 「私とした事が!(迂闊でした!)」

 撤回。

 皆さん、今年の紅白には、右京さん(水谷豊)が出演するそうです。みんなで観ましょうね!
 俺、きっと寝てるけど。

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2008年11月16日 (日)

『GUNSLINGER GIRL(ガンスリンガーガール)』~Little Baby Nothing~

 「絵チャットの外部プレビューを読み込もうとするから、負荷でトップページやブログの表示が遅くなった」と言うお声がいくつかあったので、外部プレビューを取っ払ってみました、PAN太です。
 すいませんでしたー。今後はすんなり表示できるかと思います。

 今回の更新は、中二病全開!

 間違って息子とかに見られた日には、「もう、今後どのツラ下げて父親ヅラ出来るモノか!」ってくらい、アレなナニですわ。

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 「私の心はとっくに死んでいて 自我なんか残っていない
 だから 誰もが私を愛してくれるの
 みんなが欲しがるのは 私という女の切れ端
 絶望的に受身で 取り替えのきく予備部品
 あなたに従属したい 
 一人では怖くて この道を歩いていけないわ
 お願い あなたの腕で抱きしめて
 私はあなたの所有物になりたいの」
             (MANIC STREET PREACHERS/『Little Baby Nothing』)

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 先般、「好きなマンガのヒロインが非処女だった」と嘆いているファンについての話題を知った。

 私は、こういう、マンガに本気で入れ込む馬鹿(失礼)が大好きである。
 しかし、「本気で語れば、どんな言い分も正しい」とまでは思わない。
 愛する人への嫉妬や独占欲は私にもあるし、痛いほど共感出来る。
 出来るが、しかし、「処女でなければ愛せない」というのは、大将、そりゃあねえだろう。ソレは明らかに身勝手で、あまりに幼稚な価値判断ではないか。
 そういう幼稚な衝迫を乗り越えて、「『彼女』と、コレからどのような関係を取り結んでいくのか」と言うコトを悩むコトが出来ない奴も世の中にはいるかもしれない。
 つか、マンガのヒロインとの関係について悩む奴の方が問題かもしれないが…。

 少年マンガの「箱庭的世界観」に甘やかされてきたメンタリティの持ち主は、自分の価値判断と衝突するような物語には、ストレスを感じるモノだ。カタルシスを求めてマンガを読んでいるのに、何故わざわざストレスをこうむらなければならないのか、と思っている。
 なんでそんなコトが断言出来るのかと言えば、俺がそう言う種類の人間だからだ。

 そういう手合いにとっては、「優れたマンガ」とは、

 ①読者の価値判断と衝突しない、一貫した「箱庭的世界観」
 ②作品中で、登場人物に容易に下される価値判断
 ③読者に確実に効率的にカタルシスを提供するコトを最優先目的としている

 このような態度が貫徹した作品を言うのだ。

 ②に関してさらに説明すると、ドラマ性とは、「価値判断の衝突」である。
 例えば、少年マンガにありがちな展開だが、「バトルの勝敗」によってこの「衝突」が容易に解消される場合は、「ドラマ性が希薄」となるコトが多い。バトル、バトルの連続では大味になり過ぎるから、塩味程度のドラマ性(らしきモノ)をまぶしてみせるのだ。(塩味…と言って、典型的なのは、「殴った拳を通じて、初めて敵にも熱い想いが伝わる」とか、「昨日の敵が今日は仲間になり、次なる敵と共に戦う」とか、ああいうのですわ。ハイ。)

 逆に、作品中でこの「衝突」が解消を見ない場合は、読者はストレスを抱えるコトになる。
 読者の感情移入の対象である「主人公」や「ヒロイン」が、「衝突」の結論として、「積極的価値(=栄光)が与えられていない」。言い換えれば、「作品世界から肯定されていない(=祝福されていない)」からである。

 さらに言えば、万が一、作品中で「価値判断の衝突」に対して「判定」が下されない、と言う事態があれば、その場合作品は読者にその価値判断を委ねている、と言うコトを意味しているのではないか。
 「箱庭の中(=マンガの世界)」で決着を見なかった「衝突」に、読者は「現実」に「積極的価値(=栄光=祝福)」を与えるコトを期待されているのだ。

 誰がそんなコトを期待してマンガなんか読むかよ、という反応は当然あると思う。
 私達の多くは、底意地の悪い言い方をすれば「読み捨ての娯楽」、上等な意味でもせいぜいが「現実逃避の手段」としてマンガを愛している。そういう態度でマンガに接するコトはもともと間違ってなんかいないし、「マンガ本来の使命」とはそういうモノだったはずだ。

 マンガとは、「現実の読者の人生とは何の関係も無いただの商品」、「趣味の時間を豊かにするための消費材」であり、その目指すべきは、読者にとってひたすら気持ちのイイ「カタルシス」を提供するコトなのだ。
 だからマンガは、その歴史の中でさまざまな価値観をふるいにかけてきて、読者の価値観と衝突しない「箱庭的世界観」を獲得した。

 この「箱庭的世界観」に慣れ親しんできた読者の内部にも、「箱庭的価値観」が再生産されている。
 「処女でないヒロインは愛せない」という馬鹿げたメンタリティも、硬直的な「少年マンガはかくあるべき論」も、自分たちが語っているのは所詮「箱庭」の中の出来事である、と言う「割り切り」を告白してくれているのだ。
 そして、読者の側に「箱庭的世界観」に対する期待がある限り、「俗情に寄り添う」かのように、少年マンガは「箱庭的世界観」を生産し続ける。

 「非処女のヒロインを、俺はこれからどのように愛せるのか?」などと言うコトを、読者様が悩む必要などないではないか。
 マンガは、読者の「箱庭的世界観」と衝突しない、とっつきが良いヒロインを、せっせと生産すればソレでイイのだ。

 マンガと現実を断絶させている「割り切り」を踏み越えて、読者の側に渡って来ようとする作品がもし現れたなら、「そんなのはマンガの役割では無い」「そんなコトを俺はマンガに期待していない」とバッサリ斬り捨てるのが、「箱庭的世界観」の正しい判断なのだ。

 読者は、「箱庭的世界観」で解消出来ない「価値判断」を求めてくるマンガなど、面倒くさいだけなのだから。

 「マンガが私達の現実の生活の価値判断に影響を与える存在にはなりえない」あるいは「そんな必要は無い」、と言う「割り切り」をもってマンガを読んでいる限り、そこここで語られているマンガ感想の類も、所詮は「箱庭の中の景色」について云々しているのに過ぎない。

 マンガ語りなんて、「私達が生活の中で日々決断を下し続けている価値判断」とは、何の関係も無い出来事だ。
 マンガから受け取った「好き」も「嫌い」も「感動」も「失望」も、語り手の現実の生活にまで持ち込まれるコトは無いし、そんな必要も無い(第一、本気でそんなコトをする奴がいたら、「マンガと現実との間の割り切りが出来ない馬鹿」だと笑われるのがオチだろう)。
 そして、そういう態度から語られるマンガ語りなど、盆栽の枝ぶりを鑑賞して「この曲線に萌えますね」とか「この枝をこうしたらもっと良くなるのに」とか言ってるのと大差無い。
 盆栽の鑑賞に意味や価値が無い、と言っている訳ではない。盆栽好き同士の間だから通じる話もあるし、同好の人間同士で共通の話題について語るのは素直に楽しい。

 しかし、そういう「割り切り」を踏み越えて、「読み捨ての娯楽」「現実逃避の手段」以上の「なにか」になりたい、と求めて生まれてくる作品の前では、「箱庭的世界観」に依拠した「盆栽の枝ぶり」談義など、最初からなにも語っていないのも同然である。
 少なくとも、私はそう思っている。

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 「神様の手は 私には届かなかった
 色褪せた映画や 大好きな本や 白黒テレビだけが友達だったの
 世界のすべては 私にとっては存在しないも同然
 いいのよ 好きなだけ私を使い倒したらいいわ
 あなたにとって私なんか ロリポップキャンディみたいなものなんでしょう
 私をダメにしてしまうつもりなのね 
 どうせ私の人生なんて 
 いつか 老人になったあなたが懐かしむ想い出に過ぎないのよ」

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 なんと言いますか、今、かなり、この作品に心を奪われてしまっています。

 『GUNSLINGER GIRL(ガンスリンガーガール)』。

 一気に、既刊10巻全部揃えてしまった。
 また、に怒られたよ。コレ以上マンガ本増やしてどうするのかって。

 すでに有名な作品であり、コミックスは累計300万部近く売れているらしい。
 アニメ化も2期に渡って実現されているとのコト。
 つまり、商業的に成功しているマンガなのだ。
 くやしいが、チャンピオンのどの連載作品より、多くの読者に愛されている。

 それらの事実がにわかには信じられなかった。
 『GUNSLINGER GIRL』は、それほどヘヴィーな内容を持った作品だった。

 主人公の少女たちは、国家の秘密組織の下で「戦闘機械」としての訓練を受ける「サイボーグ」。
 彼女たちの存在意義は、「国家要請に従って、ミッション(主に殺人)を遂行する事」。
 少女たちがそれぞれに背負う、恵まれない(と言うより、凄惨な)生い立ち。
 与えられたのは、つくりものの体。
 いつわりの記憶の上に形成された、過去を持たない人格。
 「つくりものの体」と「いつわりの記憶」を維持するための薬物投与は、彼女たちの「もともと極端に短い寿命」をさらに削っていく。
 少女から担当官の男性に向けられるのは、洗脳処理から派生した「擬似恋愛感情」。
 再洗脳のたびに、上書きされて失われていく、「ささやかな想い出」。
 黒い世界の片隅で、束の間ひっそりと咲いて、そして枯れていく「小さな幸せ」。
 少女たちの「生」は、取り替えのきく予備部品のように扱われていく。

 このマンガの中では、「真実」と確信出来るモノが、一見するとどこにも見当たらないように見える。
 少女たちにも、彼女たちを取り巻く大人たちにも、「積極的価値」を見出しにくい、殺伐とした作品世界。

 美少女が銃を手に派手なアクションを繰り広げるマンガ、と言う部分に惹かれてこのマンガを読み始めた人(実は私もそうです)は、ストーリーが進むにつれて確実に「終末」に向かって枯れていく美少女たちの姿を、どんな気持ちで見守っているのだろう。
 しかも、途中から登場する二期生ペトルーシュカの存在は、一期生の少女たちを(肉体的にも精神的にも)追い越して行き、彼女たちを確実に「過去の存在」へと落とし込んでいく役割を予感させて、やるせない気持ちにさせられる。
 自分の好きなヒロインが、作品世界の中で滅び、乗り越えられ、やがて忘れ去られていくのを見守らなければならない、などと言うコトは、「箱庭的世界観」ではあってはならないコトのはずなのだが。

 だけど、愛されているんだよ。このマンガは。
 『ガンスリ』のファンはアレか、マゾ体質の人が多いんか?俺を含めて。

 一方で、少女たちと男性担当官との間に存在する「絆」がストーリーの主旋律である以上、どんなに歪んでいるように見えても、『GUNSLINGER GIRL』は間違いなく「ラブストーリー」である。

 少年マンガが一般にラブストーリーを苦手とするのは、恋愛には本質的に「勝敗」も「ルール」も存在しないからだ(個人的には、恋愛には「善悪」すら存在しない、と言い切りたい)。
 好きな相手と結ばれるコトがあっても、ソレをもって恋愛は終るわけではないし、逆に成就しない恋愛に価値が無いわけでもない。

 恋愛と言う局面でキャラクターが要求されるのは、「力で敵を打倒するコト」でも無く、「正解を選択して攻略するコト」でも無い。

 自分が求める相手と、どのような関係を結んでいくのか。
 自分とは違う人間と、ともに生きていくと言うコトはどういうコトなのか。
 自分や相手の「心の迷宮」を経巡り、正解が存在するのかも分からない世界を味わうのが、恋愛の本領なのではないか、と私は思う。

 「戦い」に勝利すれば、おのずと状況は打開される(=価値観の衝突が解消される)と言うのは、少年マンガ特有の「箱庭的世界観」の下でしか通用しない、幼稚なメンタリティなのである。
 恋愛における「価値観の衝突」は「戦い」では解消出来ないから、ラブストーリーはドラマ性が強くなり、作品中で「価値観の衝突」が解消されない場合、その恋愛は悲劇性を帯びたりもするのだ。

 読者にとって、『GUNSLINGER GIRL』の少女たちは間違いなく「悲劇のヒロイン」である。
 自分たちが感情移入するヒロインたちの過去は、とにかく重たいモノばかりなのだが、その上、彼女たちの未来にも、明るい徴がまるで見えない。
 ヒロインへの感情移入が、報われそうな予感が全然しないのだ。

 『GUNSLINGER GIRL』と言うマンガは、カタルシスを期待する読者を打ちのめすために生まれてきたかのようだ。

 この作品は、読み手によっては、「白黒・善悪・正邪を明確にしない、非倫理的な作品」と映るかもしれない。
 登場人物の…例えば、少女たちを取り巻く大人たちの「悩ましい偽善」や「錯誤」が、「真実」に昇華されるコトが無い、救いの無い作品、と読めるかもしれない。
 『GUNSLINGER GIRL』の少女たちの「生」など、水をつかむようにやるせない手応えしか感じさせないモノかもしれない。
 今、夜空に輝く星も、いつか必ず萎んで死んでゆく運命にあるのと同じように。

 『GUNSLINGER GIRL』は、読み手に「価値判断」を委ねきっている作品のように、私には思えてならない。

 しかし、『GUNSLINGER GIRL』は、この「救いの無い世界」に「一撃」を加える。
 きわめて控えめなかたちで、ソレもほんの時たまに、だが。

 例えば、第9巻のアンジェリカ編。
 少女アンジェリカの記憶の中から消えたはずの『パスタの国の王子様』が蘇るシーンである。

 彼女を取り巻く大人たちは、自分たちを呪いのように苦しめる過去から逃れられないまま、希望が見えない現在を生きている。その大人たちが、かつてアンジェリカを慰めるために創作したおとぎ話が、今度はアンジェリカから大人たちに向けて語られる。

 このおとぎ話が、大人たちの「誠実」から生まれたものだとは認めない読者もいるかもしれない。
 偽善かもしれない。
 どんなにましな意味でも、せいぜいが自己満足に過ぎないかもしれない。

 しかし、アンジェリカが『パスタの国の王子様』を語ってくれた時、私たちは、思わず膝を折るのだ。

 この世界には、「愛」が無い。「誠実」も無い。無くて当然。もともとそれが『GUNSLINGER GIRL』の世界なのだ。私達の世界によく似た、そんな世界なのだ……
 そんな軽薄な認識を、このシーンはぶち砕く。

 「愛」が無い世界でアンジェリカを苦しめてきたコトを、「誠実」が無い世界でアンジェリカを生かしてきたコトを、大人たちは悔い、そして涙を流す。

 「取り替えのきく予備部品」のように扱われてきた彼女の「生」は、この時確かに、この殺伐とした作品世界に一撃を加え、ほんの少しだが、揺るがせてみせている。 

 「箱庭的世界観」が目指すカタルシスとは比べようもないだろうが、この『GUNSLINGER GIRL』の過酷な世界が、ほんの一瞬、アンジェリカを祝福し、栄光を与えてくれた瞬間だと私は思う。

 栄光と呼ぶにはちっぽけで、散発的なエピソードかもしれない。

 しかし、この一瞬だけは、アンジェリカの苦痛が確かに「世界の中心」だった。

 このエピソードについて、「感動した。泣いた。」と語るのは簡単だろう。
 そして、私たちは簡単に忘れるのだ。
 感動も、涙も、現実の自分の時間とは何の関係も無い、「箱庭」の中の出来事として。

 今、みんながドン引きしているのを予想しながら書いている。
 馬鹿だと思われてもいい。
 中二病だと笑われてもいい。

 私は、これからの自分の現実の生活が、アンジェリカの苦痛とは無縁に続いていくのだ、と言う事実に、怒りを覚えている。

 『GUNSLINGER GIRL』から受け取ったモノを、どうして、マンガを読む以外の時間の…現実の自分の時間の中に、連れて行くコトが出来ないのか、と、自分に怒っているのだ。

 『GUNSLINGER GIRL』の作品世界が、アンジェリカに、トリエラに、ヘンリエッタに、少女たちに積極的な価値を、栄光を、祝福を与えてくれないのなら、読者がソレを彼女たちに与えるしかないじゃないか。

 いや、違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。
 『GUNSLINGER GIRL』は、「箱庭」と「現実」の間にある断絶を踏み越えて、読者に念願しているのだ。

 「彼女たちを祝福してあげてください。」と。

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 君は純粋だよ 
 君は 雪のように純粋で美しい
 僕たちは、と言えば 退場させられる運命にある 自堕落な木偶人形に過ぎないのさ 
 僕たちに ロックン・ロールの啓示がやってくる
 文化
 疎外
 退屈
 そして絶望を、と

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 「世界の中心」のようにさえ感じられたアンジェリカの苦痛すら、残された者たちによって「乗り越えられる」、と言うよりもむしろ、混沌の中で溶かし込まれていくようなかたちで忘れ去られてしまうような予感がする。

 作品世界の中でも、たちまちのうちに、彼女たちの「生」は、再び「世界の片隅」の取るに足りない「予備部品」のひとつとして、取り扱われていくだろう。

 第10巻で、少女トリエラは誓う。
 確かなモノなど…自分の中の感情すら、どこまでが自分自身のモノなのか、確信が持てないような「生」であっても、

 「必死に生きて そして死のう」

 と。

 彼女たちのドラマに比べれば、自堕落で建設性の無い私の「生」など、みじめな嘘で固められた出来の悪い…誰も読まない小説ほどにも意味が無いだろう。

 私はトリエラのように、必死で生きたコトなど無かった。
 アンジェリカのように、誰かを赦したコトも無かった。

 だけど、馬鹿を承知で、私は思っている。
 彼女たちを、「箱庭」の外に連れ出して、マンガ以外の現実の時間の中で祝福してあげたい、と。

 どうしたらそんなコトが出来るかなんて、私にもわからないですよ?

 だけど、とりあえず、彼女たちの「生」に思いをいたすたび、私の胸は痛いのだ。

 彼女たちの存在が、私の心の中に、まるで、新しい「痛点」となって宿ってしまったかのように。

 ムリヤリだが、それが、彼女たちの「栄光」と言えば、言えるのかもしれない。

 今は、そんなコトくらいしか、私には思いつかないんです。

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2008年11月 8日 (土)

『パ・ドゥ・ドゥ(Pas de deux)』

 『PUNISHER』感想を更新します、と予告しておきながら、いきなり反故にしたまま1週間が過ぎました、PAN太です!

 だって、ここんとこ、予想外に忙しかったんだもんよ!
 コメントやメールへの返信、遅くなっててすいません!

 と言うのは、言い訳で、

 『PUNISHER』への愛の炎は、変わらずに燃えているのですが、正直言って、ちょっと今は感想書きたくない気分です。
 パニには何の問題も無いのよ。私自身の問題です。
 なもんで、気持ちの整理がつくまで、パニ感想はもうちょい待ってください。待ってる人いないかもしらんけど。
 思わせぶりな書き方してすんません。大したコトじゃ無いんですけどね、ホント。

 こういう気分の時に、たいてい、普段だったら書かないようなろくでもないコトを書きたくなるんだよ、俺って奴は。

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 小室哲哉、売れていたねえ。

 やたら流行っていた。売れていた。
 頑張って儲かって、よかったねえ。
 リアルタイムで聴いていた当時を思い出してみても、小室哲哉については、それ以上の印象が無かった、と思う。

 あれだけ売れていたのだから、きっと、多くの人が彼の歌を支持していたのだろう。
 その人たちは、小室哲哉の現在の凋落ぶりを見て、なにがしかの感慨を抱いているだろうか。
 残念に思っているのだろうか。
 滑稽だと思っているのだろうか。
 今でも、彼が作った歌を愛して、胸の中で鳴らしながら生きているのだろうか。

 私に限って言えば、 当時から、私にとって小室哲哉の音楽は、私の人生とは無縁の場所について歌われているとしか思えなかった。
 もしも10年前に、「好きなミュージシャンベスト100」を挙げてみろ、と言われても、私は小室哲哉の名前を入れなかっただろう。ベスト100をベスト10000にまで拡大しても、彼の名前を入れようとは思わなかったはずだ。
 もともと私にとって彼は、その程度の存在だった。

 ただ、今回の騒動で、思い出したアルバムがある。

 白竜の『光州City』。
 今、ググって確認してみたら、1980年の作品だった。
 札幌の実家に残してきたLPレコードの山の中に、このアルバムも眠っているはずである。家族に処分されていなければね。

 白竜のデビューアルバムにしてライブアルバムなのだが、不幸な曲折を経て世に出たコトもあり、よく「幻の名盤」的な紹介をされる作品である。

 1曲目の『現実』の「現実は 地球のように丸くはないんだよ」と言う、リアリティありまくりの必殺フレーズに、当時痺れたモノでした。
 件の『光州City』や『アリランの唄』など、怒涛の名曲が続き、そしてアルバムの悼尾を飾っていたのが、あの『パ・ドゥ・ドゥ(Pas de deux)』。
 この、やさしくも濃密なラヴソングの存在が無かったら、『光州City』と言うアルバムの印象も、だいぶ違ったモノになったのではないか。
 朝の光のまぶしさから顔をそむけてしまうような、そんな男と女。二人のセックスをパ・ドゥ・ドゥになぞらえたこの曲は、匂い立つようなエロスと優雅さに溢れていた。
 当時、この曲を聴きながら、「俺もいつか、誰かと、こんなセックスをする日が来るのだろうか」と思ってました。ええ。そんな妄想を誘ってくれる名曲だったんですよ。
 考えてみると、この曲を聴いたのが、PANTA作品との初めての出会いだったんだなあ。

 で、コレも結構有名な話だが、この白竜のバンドに、若き日の小室哲哉が在籍していたのだ。もちろん、キーボード担当で。
 『光州City』のアルバムジャケットに、白竜バンドのメンバーの一人として、フォーキーな髪型をした神経質そうな顔写真と、クレジットが載っていた。
 私がこのアルバムに出会った時は、リリースから何年も経っていて、小室哲哉はすでに『My Revolution』やTMネットワークで有名な存在になっていた。
 当時、「あの小室が、『パ・ドゥ・ドゥ』のピアノを弾いていたのかよ…」と、驚いてしまったのを、今でも覚えている。

 『パ・ドゥ・ドゥ』や『現実』は、いつまでも古くならない、愛すべき歌のひとつであり続けると思う。ただ、音源がレア・アイテムになってしまって、新しいファンがこれらの歌に触れる機会が無いのが、残念だ。
 小室自身が作った歌(私は『My Revolution』や『Get Wild』くらいしか記憶に残っていないのだが)を、彼のファンはいつまでもいとおしんでくれるだろうか。
 世間様は、尾羽打ち枯らした小室哲哉を叩くのを楽しんでいるかのように見える。
 しかし、かつて彼の音楽を愛した人は、どうか、今一度彼の歌を聴き返してみて欲しい。
 今、彼の歌から、あなたは何か受け取るモノがあるだろうか。
 「あの頃のあの歌」としてではなく。懐メロとしてではなく。過去形ではなく。

 私は小室自身の音楽について、さしたる感慨も無い、ただの野次馬だが、だけどせめて、彼のファンだけは、彼の音楽を愛し続けてあげて欲しい、と思う。
 そうでなければ、あまりにも音楽がかわいそうだ。

 金が無いコトより、なにより、愛されないってのは、つらいコトだよ。

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2008年10月19日 (日)

A Matter Of Trust

 『N』に、鈴かすてらさんとのチャット絵アップしました。
 今回のお題(出題者は関直久さん~)は、「ブルマで●●●●…」
 パスワードをご存知の方はどうぞ~♪

 こんなんばっかやってるから、こんなに往生しているのに、プロバイダに問い合わせのひとつも出来ないんですよ…ナン♪さん…。
 だって、「ほうほう、どれどれ…」とか言って、「あんなん」や「こんなん」を見られてしまったら!
 怖い!

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 いつのまにか、ブログが100,000アクセス超えてました。
 訪問してくださる皆さん、ありがとうございます。
 
 『PUNISHER』の関連ワードで検索して来てくださる皆さん、愛してます。
 それ以外の検索ワードで来られた方、ガッカリするコトの方が多かったんではないか、と思います。すいません。
 でも、私のブログなんか見てるヒマがあったら、チャンピオンや『PUNISHER』読みましょうよ!そっちの方がずっと面白いよ!

 と言いつつ、それでも、これからもよろしくお願いします!

 …なのに、描いてる絵はコレだよ。チャンピオンじゃないよ!
 申し訳ない。つい、カッとなってしまって!…

 ↓『それでも町は廻っている』のタッツン ※トップ絵の別Ver.です。
Tattsun02
 エプロンの透け方が、不自然極まりなくてすいません。もう考えるのがめんどかった。

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 誰も読まないだろうけど、最近聴いたアルバム。
 他人のこんなリストって、ホント、どうでもイイですよね。でも書く。

 ①Tampa Red/『Story Of The Guitar Wizard 1928-1940』
 ②Son House/『The Original Delta Blues』
 ③Bellefire/『After The Rain』
 ④M2M/『The Best Of M2M』
 ⑤Elvis Costello & Allen Toussaint/『The River In Reverse』
 ⑥Teenage Head/『The Flamin' Groovers』
 ⑦Tracy Chapman/『New Beginning』
 ⑧Oasis/『Dig Out Your Soul』
 ⑨山下達郎/『ベスト・パックII(1979-1982)』
 ⑩Antonio Carlos Jobim/『Wave』
 ⑪Nikki & the Corvettes/『Nikki & the Corvettes』
 ⑫Randy Newman/『Trouble In Paradise』
 ⑬Randy Newman/『Land Of Dreams』
 ⑭Randy Newman/『Guilty-30 Years of Randy Newman』
 ⑮Bad Company/『Straight Shooter』
 ⑯元気ロケッツ/『元気ロケッツ I -Heavenly Star-』
 ⑰マクロスF O.S.T.2/『娘(ニャン)トラ☆』
 ⑱Lou Reed & John Cale/『Songs For Drella』
 ⑲Todd Rundgren/『Something/Anything?』
 ⑳Paulina Rubio/『Border Girl』

 こうして並べてみると、ホント、アップ・トゥ・デイトな作品って聴いてないんですねえ。最近のって、⑧と⑰くらいかな…。

 ①…想像していたほどにはダウン・トゥ・アースなかんじじゃなくて意外。むしろ垢抜けて聴こえる不思議。
 ②…ロバート=ジョンソンのお師匠さん。デモーニッシュな魅力がぷんぷんしてて最高です。
 ③…U2のカヴァー曲目当てで聴きました。
 ④…1年前だったら、絶対に聴いてない音楽。
 ⑤…もう、コステロは、ナニを演っても正しいよ!(マジで)
 ⑥…大当たり。ストーンズ好きな人は必聴。
 ⑦…この人は、デビュー曲『Fast Car』の時から大好きです。
 ⑧…おお、今回もイイぞ!うれしいですねえ。
 ⑨…嫁が好きなので…。
 ⑩…この年齢になって、やっと良さがわかりました。
 ⑪…恥ずかしながら、今回初めて知ったバンドです。『ヤンキーフィギュア』のBGMに合うかも。
 ⑫⑬⑭…私の中で、今、ランディ=ニューマンが熱い!今まで聴いてこなかったのが惜しまれる!
 ⑮…リアルタイムで聴いていたファンにはたまらんのでしょうなあ。
 ⑯…鈴さんありがとうございます。夫婦してファンになりました。
 ⑰…生き残りた~い 生き残りた~い♪ コレも鈴さん、ありがとうございます!
 ⑱…もっと早く聴いておけばよかった!彼のベスト3に入る傑作です。
 ⑲…世評を裏切らない素晴らしさです。しかし、俺って奥手だな…今頃になってコレを聴くとは…。
 ⑳…声がかわいい。

 ③④⑨⑩⑪⑯⑰⑳などは、10年前…いや、5年前の私だったら、たぶん、ハナから眼中に入らないか、聴いても素直に聴けてなかっただろう、と思います。トシをとるごとに、音楽の好みの幅が、確実に広がってるなあ、と感じます。
 若い頃は、「トシをとったら、音楽にしろなんにしろ、好みの幅ってのはどんどん狭く、かたくなになっていくんだろうなあ」と、なんとなく想像していたのですが。

 音楽については、ソレ系の個人サイト・ブログのレビューから、気になるミュージシャン、面白そうな作品を見つける、と言う場合がほとんどです。
 参考にするサイト・ブログの条件は、「私が好きなミュージシャンについて、好意的な評価を与えている」または「紹介されているミュージシャンの中に、私が聴いているミュージシャンが多い」コトですねえ。
 そういう方が紹介しているミュージシャンだったら、おそらくそうハズレるコトは無いだろう、と言う、「評者」に対する一方的な「信頼」みたいなもんがそこにあるんですね。聴いてみた結果、「ああ、俺にはコレはちょっと合わない」って場合もありますが、まあ、そんなコトもあるさ、と言うコトで。

 音楽について、第三者に言葉で諒解させよう、と言うのは、非常に難しい作業だと思います。
 もう、ホント、実際自分で聴いてみるに如くコトはないんです。だけど、「どんな音楽なのか、聴いてみたい…」と思わされるきっかけがないと、コレはもう際限の無い話なわけで。
 となると、やっぱり、ガイド役は「誰かの言葉」になるわけですね。当たり前の話。それも、「信頼」を抱けるような。

 だから、私にとって「優れたレビュー」とは、読み手を「その気にさせる」レビューなわけです。
 
 その伝でいくと、私自身の文章って、まったく「なってない」んですよねえ。反省。

 ぶっちゃけ言えば、
 「新約 巨人の星 明子姉ちゃん」とか「俺の空 川村先生 初体験」とか「ストーン・ローゼズ」とか、間違ってそんな検索ワードで飛んできた方々のうち、ほんの何人かにでも、「…なんか、チャンピオンって面白そうだな…」とか「『PUNISHER』読んでみようかな…」とか、そんなふうに思ってもらえるような…そういうのが理想なんではないか、と。

 思ったわけですよ。

 思ってるんですけどさ。
 コレがなかなか。

 100,000アクセスの節目だからってわけじゃないんですが、ふと、そんなコトを考えてしまいました。

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2008年9月 6日 (土)

『約束の橋』

 佐野元春の、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』というアルバムがある。
 1992年のリリースだから、もう16年前の作品だ。
 ここに収録されている、『約束の橋』という曲を、ご存知だろうか。

 君は行く  奪われた暗闇の中に  とまどいながら
 君は行く  ひび割れたまぼろしの中で  いらだちながら
      (中略)
 今までの君はまちがいじゃない
 君のためなら  七色の橋を作り  河を渡ろう 
       
 君は唄う  あわただしげな街の中を  かたむきながら
 君は唄う  焦げた胸のありのままに  ためらいながら
      (中略)
 今までの君はまちがいじゃない  君のためなら橋を架けよう
 これからの君はまちがいじゃない  君のためなら河を渡ろう

                   (佐野元春/『約束の橋』)

 久しぶりに、本当に久しぶりに、この曲を聴いた。
 こんな曲だったのか、という驚きがあった。以前は聴こえてこなかった歌詞が、今、この年齢になって、はじめてクリアに聴こえてきたような気がする。

 たまたま、最近、「言説の限界」とでも言った事柄について考え込むコトが多かったので、余計にこの歌が響いて聴こえてくるのかもしれない。

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 それがたとえ愛する人とでも、自分と相手との間には、何がしかの距離があるものだ。
 生まれも育ちも社会的立場も価値観も違うだろう。二人の間には異見が存在して当然だし、男女の場合にはさらに、「性差」という、愛し合っていても埋めがたい断絶が存在する。

 身近な話で言えば、誰もが覚えのある、愛する人とのすれ違い。
 やたら大きな話で言えば、遠い国の戦争。
 あるいは、大麻解禁は是か非か。
 あるいは、学歴は必要か。
 人間の価値は、「購買力」で決まるのか否か。
 残業を断るべきか否か。
 愛は世界を救うか?
 ストーンズの新作はイケてるか?
 なぜ、人を殺してはいけないのか?
 どうするどうなる秋田書店? 
 鯨を喰うのは野蛮か?
 そこは、笑ってはいけないところだったのか?
 誰に投票すべきなのか?
 ここは、世界の中心か?
 『相棒』のDVDなら買ってもいいのか?
 ゲーム脳って、本当にあるのか?
 舐めあっても ライオンは強い?
 ヤマンバギャル?
 男同士のセックス?
 地球にやさしい?
 彼女へのプレゼント?
 初音ミク?
 発癌リスク?
 『蟹工船』?
 八百長?
 中華?寿司?
 今週号の『PUNISHER』?
 ゼクシィ?
 派閥?
 歴史修正主義?
 何年ローン?
 神様?
 どうして避妊しないの?
 まあ、一杯飲めや。 

 考えが違う。
 価値観が違う。
 立場が違う。
 背景が違う。
 論点が違う。
 見方が違う。
 齟齬。
 対立。
 独善。
 相克。
 偏差。
 韜晦。
 誤解。
 政治的配慮。

 理解は遠い。 

 私たちはたいてい、此岸から彼岸に向けて「自分の言い分」だけを叫びたて、相手の言い分がこちらに近づいてこないコトに苛立つ。あるいは、苛立つ事に倦み、あきらめている。
 そこには「対話」や「議論」が在ったように見えて、私たちは、ほとんどの場合、実は、「自分の正しさ」にしか関心が無かったのではないか。
 言説や論理の力に信頼を寄せれば寄せるほど、目の前の相手から遠ざかっていくような気がしないか。
 どんなに精緻な論理で、自分の言い分を整理して聞かせても、ほとんどの場合、相手は一向に変わらない。
 彼我は交わらない。
 それでは永遠に、両者は出会えない。
 世界は変わらない。

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 『約束の橋』は歌う。

 君のためなら、「橋を作り」、「河を渡ろう」、と。

 彼我の間に存在する断絶に架橋し、相手の立っている場所まで歩いていこうとする、このフレーズは、感動的である。

 「河」という断絶に架ける「橋」とは、「なぜ、私たちはかくも違うのか」という「謎」に思いをめぐらせる、そういう「心の働き」のことなのではないか。
 同じ景色を見つめながら、まったく違うことを考えてしまう私たちは、「なぜ、こうも違うのか」、と。
 そこに思いをめぐらさない限り、私たちは自分の「正しさ」あるいは「妥当さ」を言い立てるばかりで、いつまでたっても、なにひとつ変えられないままなのではないか。

 あなたには、「なぜ」、この世界が「そんなふう」に見えるのか。私には「なぜ」「こんなふう」に見えてしまうのか。
 その「謎」に思いをめぐらさない限り、橋は架からない。
 この河は、渡れない。
 「正しさ」でも「妥当さ」でも「論理」でも埋まらない、この断絶に架ける「橋」とは、「彼岸で立ちすくんでいる人が抱えている世界観」に関心を寄せようとする、「やさしさ」である、と思うのだ。

 「私とは違う、あなた」のいる向こう側まで、「河」を渡ろう。そのために、「橋」を架けよう。

 久しぶりに聴いた『約束の橋』は、そう歌っている。

 なんとまあ、やっかいな。
 そんなテンションでいちいちコミュニケーションしてたら、身が持たねえよ。
 私は根が横着なので、つい、そんなふうに考えてしまいそうになる。
 正直、「言説」と言うモノに、倦んで、疲れて、あきらめてしまっているのかもしれない。
 どうせ、俺とあんたは違う生き物で、いつまでたっても交わるコトなんかないんだろう。人の見方なんて、変えられようもないだろう、と。
 「あなた」がいる場所まで「橋」を架けたい、と強く願うほどに、私は「あなたが抱えている世界観」に関心があるのかどうか、自分でも自信が無いのだ。
 ひどい話だ。

 この歌に感動はしても、しかし、私はまだ躊躇している。

 だけど、本当は誰だって、誰かに言って欲しいのではないか。
 「君のためなら、河を渡ろう。」と。

 いつか、こんな私とあなたとの間に、『約束の橋』が架かる日は来るのだろうか。

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2008年9月 5日 (金)

『鬼太郎が見た玉砕』

 こんばんは。「永遠の中二病」ことPAN太です。

 最近、一部の方々から、「記事」の更新が無い、『PUNISHER』の感想を書いてない、という指摘をいただいています。
 すいません、お絵描きが楽しすぎて、つい、つい…。うう…。

 と言うわけで、ひさびさに「記事」の更新です。

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 『鬼太郎が見た玉砕』、観ました。

 劇中に登場する歌、おそらく、当時の娼婦や慰安婦によって歌われたものだと思いますが、このような歌詞でした。 

 わたしはくるわに散る花よ
 ひるはしおれて夜に咲く
 いやなお客もきらはれず
 鬼の主人のきげんとり
 わたしはなんでこのような
 つらいつとめを せにゃならぬ
 これもぜひない 親のため
 

 苦界の中で泣く女たちが、「わたしはなんでこのような…」と問うた時、そこに返ってくる答えは、「これもぜひない」「親のため」と言う、よくよく考えてみれば、恐ろしい回答なのです。
 「是非ない」と言うことは、「合理的理性から導かれる善悪理非の判断が存在しない」と言うことです。彼女たちに、「悲惨」や「恥辱」を日々、丸呑みして生きるように説得しているのは、「親のため」と言う、「人倫道徳」なのです。
 議論の余地の無い、自明な、反論困難な(ぶっちゃけ言えば「問答無用」な)「道徳」こそが、この世界の「悲惨」を下支えしてきたのですね。

 「親」のために泣け。と。
 あるいは、
 「国」のために死ね。と。

 明治維新以降の近代日本は、その「政治」を「合理的理性」によって運用する事をかなり早い時期からあきらめていました。
 合理的理性にかわって、「家族国家観」に象徴される、もろもろの「人倫道徳」に「国体」の価値の根拠を求めたと言う点で、敗戦までの日本は、おそるべき「道徳国家」だったのです。おそるべき、と言うのは、政治における「是非=合理的理性による価値判断」が否定されて、問答無用な「道徳」にその行動原理が求められた、と言う意味においてです。
 敗戦までの日本の、夜郎自大で滑稽ではた迷惑な道のりは、主観的・恣意的な「道徳」が日本人の行動を決定していた以上、必然だったのでしょう(『はだしのゲン』に登場する、町内会長や教師や地域ボスに代表される「中間支配層」が、口では「お国のため」「天皇陛下のため」と言いながら、恣意的な暴力をほしいままにしている様子は、問答無用な「道徳」に依拠した「政治」がどれほどおそろしいものかを教えてくれます)。

 ラスト近く、主人公の水木しげる先生の分身である丸山二等兵たちが、先ほどの娼婦の歌の替え歌を歌います。

 これもぜひない 国のため

 と。

 「親」と「国」とを言い換えただけで、そこにあった「女たちの悲惨」が、そのまままったく違和感無く「男たちの悲惨」として歌われています。
 最前線で犬死にさせられる一兵卒が、「世界」の理不尽に泣かされている娼婦・慰安婦たちに重なって見える瞬間です。

 それがたとえ「親」でも「国家」でも、個人に「悲惨」を呑み込んで生きるよう、あるいは死ぬように説得してくるものほど、いかがわしいモノはありません。

 63年前までの日本人と、今の私たちと、そのメンタリティにおいてどれほどの断絶があるのか、疑ってみれば、頼りない話です。

 以前も書きましたが、圧倒的な「世界」の前に、「個人」はあまりにも小さい。
 しかし、「世界」の言い分を丸呑みせずに、もっと自由に、もっと愉快に生きていくために、「個人」はもっとエゴイスティックになってもいいのではないか、と、私は思ってしまいます。
 自分のエゴ以外のなにものにも、決して膝を折ろうとしない態度。
 私自身は、そういう「態度」からは遠い暮らしを送っていますが、しかし、そういう「態度」を貫いて生きる人に、あこがれを禁じ得ません。

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 ラストシーン、上官の亡霊が、水木先生に向かって語りかける、「愉快に生きろ」と言う台詞には、グッとキチャイました。ええ。
 そうなのだ。私たちは誰もが(誰もが、だ。世界中の誰もが、だ)、もっと愉快に生きていいのだ。

 「誰もが、もっと愉快に生きていい。」と言うメッセージよりも、もっと「崇高」な、もっと「偉大」なものが、たとえば「国家」や「民族」や「正義」というモノがこの世にはある、などと言う言説は、すべて虚妄なのだ。

 「平和ボケ」と嗤笑する声が聞こえてきそうだが、上等だ、と思う。
 アフガンも、イラクも、パレスチナも、グルジアも、北朝鮮も、世界中いたる所が「平和ボケ」におおわれてしまえばいい。
 そんな世界になって欲しいものだ。ガチで。

 鬼太郎だって、きっと、そう言ってくれるだろう。

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